私の旅日記2006年

犬吠埼〜牧水の歌碑〜
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「ぎょうけい館」から犬吠埼へ。


犬吠埼という地名のいわれが書いてあった。


人間の歴史と地球の歴史

 犬吠埼という地名のいわれには、義経の伝説がある。兄頼朝に追われて奥州へのがれる途中調子へ立ち寄った義経は、その愛犬を残して去ったが、主人を慕う余り7日7夜岩頭で吠え続けたところから犬吠埼と名づけられたと言い伝えられています。

 また義経が立てこもったといわれる犬若の千騎ヶ岩附近にある犬岩は、死んだ愛犬が岩に化したものだとの伝説も残っています。

 ところでこの犬吠埼を形成している岩石は、地質学上では中世代白亜紀層に属するものとされているので、少なくとも7千万年から1億年以上の風雪に耐えてきているものだと言うことになります。

銚子市

 明治39年(1906年)8月22日、河東碧梧桐は犬吠埼から犬若を訪れた。

 きょうは犬若へ行って見た。犬吠から南西に十町ばかり隔たった出鼻である。海岸に黒い肌のわるい岩がつぐね芋のように重なっておって、それに太平洋の大きな波が真正面に打ちかかっておる。義経であってか、奥州下りの時迹を慕うた犬が岩になったという口碑のある岩も見える。


犬吠埼遊歩道を歩く。

天気予報では朝から晴れるはずなのに、曇り空。

 明治43年(1910年)1月3日から12日まで竹久夢二は銚子に滞在。

1月9日

波の絵1枚、灯台2枚、かく。
午后砂浜を彼女姉と二人来る、遠くよりのぞみて、余をさけて灯台へゆく。
かへる時、のぞいて松かげに逢ひ何もいわでわかる。
散文の如し。
夕日赤し。

『夢二日記』(明治44年)

「彼女」は銚子海鹿島の名望家長谷川康の三女賢(かた)

馬糞池


 馬糞池は義経の愛馬が脱糞した跡地。池(石切場跡)を馬糞と呼び、その南側の海に突き出た岩場を馬糞の鼻と呼んでいる。

 明治44年(1911年)の初夏、与謝野晶子は犬吠埼を訪れて歌を詠んでいる。

あら磯の犬吠岬のしぶきをば肩より浴びてぬれしかたびら

第10歌集『青海波』

 大正元年(1912)8月、高村光太郎は銚子の犬吠埼に写生旅行に出掛け、ここで智恵子と再会した。

丁度明治天皇様崩御の後、私は犬吠へ写生に出かけた。その時別の宿に彼女が妹さんと一人の親友と一緒に来てゐて又会つた。後に彼女は私の宿へ来て滞在し、一緒に散歩したり食事したり写生したりした。様子が変に見えたものか、宿の女中が一人必ず私達二人の散歩を監視するためついて来た。心中しかねないと見たらしい。

『智恵子抄』

馬糞池脇の岩に若山牧水の歌碑があった。


犬吠を詠んだ歌人の紹介

 犬吠埼は昔から多くの文人歌人に心の故郷として親しまれてきた。中でも若山牧水は大正8年1月1日から3日まで愛弟子の細野春翠とこの地を訪れ、岬の先端にそびえる白亜の灯台に打ち寄せる太平洋の怒濤に歌心をそそられて多くの歌を残している。

白亜の灯台


明治39年(1906年)8月21日、河東碧梧桐は犬吠埼の燈台を見に行った。

 昼から燈台を見に行く。犬吠の燈台は廻転燈台で、灯がまわりながら海上十九海里を照らすものじゃそうな。明治七年に据えたきり、少しの変動をも見ぬという。


太平洋の怒濤


犬吠埼にて

ひさしくも見ざりしかもと遠く来てけふ見る海は荒れすさびたり
遠く来てこよい宿れる海岸のぬくとき夜半を雨降りそそぐ
まともなる海より昇る朝の日に机のちりのあらわなるかな

若山牧水

第13歌集『黒土』に収録されている歌。

 『牧水歌碑めぐり』(大悟法利雄著)によれば、昭和45年(1970年)3月18日除幕、56番目の牧水歌碑である。

若山牧水は犬吠埼の「暁鶏館」に着くと、奥さんに絵葉書を出している。

 いま到着、すてきなところだ、曇った空の下で大きな風が吹いて海がみな眞白だ、やれやれと思ひながらこれより大いに眠らむとぞ思ふ、

曇った空の下で大きな風が吹いて海がみな眞白だ


昭和8年(1933年)3月、水原秋桜子は銚子に遊ぶ。

   犬吠埼

東風の磯下総の国こゝに尽く

月見草萌ゆるを見たり崎のはてに

『新樹』

犬吠埼遊歩道を上がると、高浜虚子の句碑があった。

虚子の句碑


犬吠の今宵の朧待つとせん

簡単な説明が書いてある。

 昭和14年4月、虚子が日本探勝会の吟行で来泊されたときの句で、碑は昭和27年7月、銚子ほととぎす会が建立しました。

碑の裏には「銚子ホトトギス會」と書いてある。

やはり「ほととぎす」はカタカナでなければいけないと思う。

 犬吠崎の燈台に行く少し手前右手の丘の上に、荒磯を背にして、この句碑が建って居る。高さ二尺七寸の自然石で、昭和二十七年七月、銚子ホトトギス会の建設に成る。句は昭和十四年四月、日本探勝会の吟行で来遊一泊された時の作である。何者の悪戯か、碑面にナイフで落書をした傷痕があるのは惜しい。


山口誓子は虚子の句碑を見ている。

 岬の道の海へ突き出たところに高浜虚子の句碑も立つてゐる。

   犬吠の今宵の朧待つとせん

 昭和十四年の作。碑は海に背を向け、逆光線で暗かつた。

「九十九里浜行」

海鹿島へ。

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