高浜虚子の旅

「詫びの旅」

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 昭和30年(1955年)5月14日、高浜虚子は星野立子に誘導され羽田から福岡へ。

 五月十四日、午前十一時。星野立子に誘導され羽田より空路。午後三時福岡の板付に著き、二日市に一泊。田中斐川東道。




更衣したる筑紫の旅の宿

 五月十五日。柳川俳句會。昨年來たらざりし詫び。年尾も芦屋より來會。お花(立花邸)に一泊。年尾直ぐ歸東。



廣ごれる春曙の水輪かな
   虚子

憩ひ居る柳の下のボートかな
   年尾

憩ひ見る立花様の雛納
   立子

 五月十六日。熊本行。阿部小壺東道。

夏山や肥筑平野も漸くに
   虚子

 江津莊に入り、句碑除幕式。これも宿題なりし。

   縦横に水の流れや芭蕉林



縦横に水の流れや芭蕉林



 土地の人々はもとより、江津湖畔より汀女母、小國より梨影女等。扶美等はこれより行を共にす。

蒲團あり來て泊れとの汀女母
   虚子

芭蕉の女我に怨ずることありぬ
   同

晩涼や晝歩きたる道をまた
   立子

 五月十七日。三角港から有明灣に浮ぶ。島原の菊池止戈等東道。天草島海上に横たはる。

其島は卯浪の彼方歴史あり
   虚子

   島原港

よき港夏木夏島とり圍み
   同

山さけてくだけ飛び散り島若葉
   同

地圖を見てあれ兎島涼しけれ
   立子



山さけてくだけ飛び散り島若葉



 五月十八日。長崎の警察本部長、夏目義明東道。雲仙越。ゴルフ場休憩。小濱通過。

 長崎、桃太郎泊り。丸山、花月にて句會。立子出席。遅れて出席。一昨年、去來二百五十年祭の時、病氣不參の詫び。市長より記念品。丸山といふは昔遊里の地。去來の句碑あり。

稲妻やどのけいせいとかりまくら
   去來



いなつまやとのけいせいとかりまくら
(いなづまやどの傾城とかり枕)



 五月十九日。支那寺、天主堂等。警察本部にて、立子署員に小俳話。有田に向ふ。夏目義明東道。日見峠にある去來の芒塚。

君が手も交るなるべし花芒
   去来

 井上米一郎の門前を過ぎる。

芒塚程遠からじ守るべし
   虚子

 浦戸彎を離れて山間の道に入る。人通りも稀、百姓家が點在するばかり。心ゆく景色。

たのしみの有田に入りぬ町は初夏
   立子

 こゝでも一昨年の不參の詫び。俳句會。立子出席。

 深川別邸泊。

夏山を見よと土廂淺くあり
   立子

垣ざかひまで來し朝日苺つむ
   同

 五月二十日。柿右衛門を訪ふ。

 汽車にて小倉に向ふ。丸橋静子居。玉藻句會。婦人達のみ。盛會。

門司より人中津より人暮遅き

美しき故不仕合せよき袷
   虚子

 この前來た時は壯健であつた父君、胃癌とのこと。自分にて承知。痛まし。病床を見舞ふ。辭する時玄關まで送りに出る。田川旅館泊。

 五月二十一日。汽車にて博多へ。

 都府樓の句碑を見る。

天の川の下に天智天皇と臣虚子と
   虚子



   夜都府楼址に佇む

天の川の下に天智天皇と臣虚子と




 これも一昨年私の行くのを待つて除幕する筈であつたもの。觀世音寺も近く、花鳥山佛心寺も直ぐそこにある。

 靜雲和尚の花鳥山佛心寺に行く。そこに建ちたる虚子堂といふのを見る。

虚子堂と名づけしことよ萩芒
   立子

 帶塚も一見。この裏山は昔太宰府の時を打つ太鼓のあつたところであつて、それをなまつて今は月山といつてゐるさうである。

帶塚は月山裾に明易き
      虚子

 以上句碑、虚子堂、帶塚を見る事も一昨年來の宿題なりし。

 五月二十二日。天滿宮裏の光明寺で、玉藻俳句大會。立子出席。遅れて出席、小俳話。原鶴温泉に向ふ。途中甘木市の丸山公園に立寄る。

風薫るあまきいちびと集ひ來て
   虚子



風薫るあまぎいちひと集ひ来て



螢とぶ筑後河畔に佳人あり
   虚子

おくれゆくこの子の籠に螢一つ
   立子

寢巻の子寢巻でなき子螢追ふ
   同



蛍飛ぶ筑後河畔のよき宿に



 これにて一切の詫びを濟ませ、一所一泊の慌しい旅を終つた。板付から伊丹まで空路。

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