俳 人

建部凉袋
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 野坡に入門し、葛鼠と号した。別号都因・吸露庵。片歌を唱え始めてからは綾足と号す。

故人
綾足   建凉袋
   安永三年甲午三月十八日
   知足院即心是空居士 江戸
   牛嶋弘福寺在墓所

可都里『名録帖』

 享保4年(1719年)、弘前に生まれる。

 元文4年(1739年)3月25日、久保田を出て北陸道を上京。『笈の若葉』5月、野坡の浅生庵を訪ね入門。

 寛保元年(1741年)夏、凉袋は初めて青梅を訪れた。24歳の時である。

 寛保元年、駒込吉祥寺から夏、青梅の何とかいへる山間に夏をむすぶ寺ありて、我も行く。その南に風呂の入りといふ所ありて、先の住持かくれこもれり。此の老僧ことのほかに風雅を好みたまひしかば、我とはよきあわひなるべし。

 寛保3年(1743年)10月12日、芭蕉の五十回忌で秩父市の菊水寺に句碑を建立。建部涼袋筆。



寒菊や粉糠のかゝる臼の端

 延享元年(1744年)4月、建部凉袋は秩父から伊香保に向かう途中で鴻巣の横田柳几を訪ねる。

   梢涼しく藤おぼつかなき秩父山の春と背中あはせに、
   伊香保の浴ミおもひ立ながらまづ東武に趣くことありて

行春や松の青ミハ手もつかず

『伊香保山日記』

 延享3年(1746年)、凉袋は伊勢に梅路を訪ねて入門。

 延享4年(1747年)、29歳の時に浅草雷門脇に庵を構え、風神の姿から凉袋と号した。

浅草雷門


 宝暦元年(1751年)3月6日、建部凉袋は長崎からの帰途吉備津神社に詣でる。

吉備津宮大藤内の社拜しめぐりて岡山に出るころはいとゞ西日に成りてひとつみどりなる川添の柳もあたゝかに起臥たり

   吹かれじと水にとりつく柳かな

『紀行花がたみ』

 宝暦9年(1759年)秋、凉袋は門人山河房烏朴・一茶坊破了を伴い銀杏亭玉斧を訪ねた。

 宝暦12年(1762年)2月晦日、江戸を立って武州・毛野・越後・信濃を巡り、同年7月初旬に帰国。

 宝暦12年(1762年)5月17日、有井浮風没。

浮風のぬし、ほとゝきすを句の終りとして、身まかりたまひぬと聞ゆ

月は西枕は北へほとゝきす
   凉袋


 宝暦13年(1763年)、初めて境町の織間本陣を訪れた。

「織問本陣跡」の碑


 宝暦13年(1763年)、建部綾足は鷄山を訪ねている。

 宝暦13年(1763年)、建部凉袋は齋藤雨石の家に泊まっている。

 明和3年(1766年)10月4日、「三野日記」の旅に出る。

 神無月四日といふにみちたちして、其夜はあやしきうまやにやどる。


 安永2年(1773年)9月3日、桐生へ。

同年『本朝水滸伝』前編、刊。

晩年は青梅に俳仙窟を結んでいる。

安永3年(1774年)3月17日、56歳で没。

 安永9年(1780年)、凉袋の七回忌に吸露庵二世根岸凉宇は青梅市の梅岩寺に建部凉袋追善碑建立。

建部凉袋追善碑


凉袋の句

大空のとこへつかへて柳かな


   二見にて

行雁や蒔絵に兀る松の上


黒うなる雪や見かねてんめの花


何処なりと折て行也桃の花


青柳や細き所に春の色


畔一ツ娵(よめ)入てよ所の田植かな


千金の春にもうらて牡丹かな


何告ておばすて山ぞ行々子


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