横田柳几

『鉢形紀行』


 安永2年(1773年)5月7日、横田柳几は川田谷村(現桶川市)の門人島村嵐二を伴い鴻巣を出立。11日、鉢形城跡を訪れる。12日、野原の文殊寺に参詣。

かれこれに驚かされて、癸巳の年あやめふける明の七日、雨の晴間を窺い、伴ない立出る友に川田谷村兎岡舎のあるじ嵐二、従者庄五郎に上人へ奉るべき物及び雨具など背負せたり。

吹上村白菊亭を覗ば、田植の折からなりとて帰りを約して、久下の水車を見る。

十一日、古城跡を見んとて、案内して山主杖を出し給ふ。毛せんに野風呂例の握飯なんど、小童と庄五郎などに携させて各々城山に登り、碧潭を望み溪谷を渡り、田野を眺め、終日風色をあはれみ帰寺す。上人一巻を携ひ給いて年頃記せるものなりとぞ。

大光寺、千島入道跡は泉水坂の上、大手の橋の内なり。姫曲輪秩父孫次郎、辺見曲輪辺見十八郎、福田庄丸これは秩父上吉田に末葉居るよし。本江越前守の信濃守何れも城下、本丸の下をまき淵と言う。岸の高さ十四丈二尺。氏邦の祈願所長久院、境内の搦手なり。瀬下丹後跡あり。連雀町、鍛冶小路、鉄炮小路、新小路、殿原小路、この道惣名木持村と言う。内宿、白宕(岩)、甘糟、関山を鉢形四ヶ所と言う。

      (城主の記略す)

   古城跡

城あとやまだ連(逆)茂木の茨の花
   嵐二

谷の隅々に四十八の釜、姥釜姥釜汝は鋳物師が手より成れるものにもあらず、天地の間に壺盒せられるるもの、はた龍神河伯か御物なるや。さもあれ汝か名は世に鳴るとも、声を発して里人を驚かすことなかれ。

口を守ること瓶の如くせよ。知らずや吉備津の神釜は人祈れば鳴動して吉凶あり。其中に姥釜を賦してを告ぐとぞ。籤のみ告ぐるものやある。

富士や浅間の釜は絶頂にあり。汝は渓底に住む。彼の婆子か二布をかけられて、いぶかしき呪いを待つとも、浪平らかにして静なる。茶人の耳をたのしませよと、かれを責めていふこと。

姥釜や梢にたぎる蝉の声
   柳几

帰終(路)は野原の父(文)殊寺へ詣らんことをかねて願い侍れば、鉢形より保田原、小園、畠山、本田、三つ本迄三里、この里に柴田伝二郎記菊なる人あり。十四年先、辰の夏慈光寺詣の時、やどりて、杖をともにせし因ありてより猶年々の青吾に志をはないしまま尋ねよれば、あるし菊子他にありと聞て、しばらく杖をいとふ内、

夏来ても菊の主や留守ながら
   柳几

鉢植の馳走に暑さ忘れけり
   嵐二

家婦及び子息伝右衛門いとせちにもてなし、一夜なりと宿をすすめけるが、行先のつもり悪しく之人の帰るもいかがと袖を払いて立出るに、子息伝右衛門野原への迄道ありとて、仙台原を先達して間もなく野原の御寺に着きぬ。

   父(文)殊寺奉納

虫干や智恵さまざまの納もの
   柳几

野原にて別れ、和田村、上中曽根、新川渡しを越て吹上村林氏白菊亭に宿す。

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