平橋庵敲氷

『祖餞』

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 明和9年(1772年)7月26日、平橋庵敲氷が甲斐を立ち美濃関へ行脚した折の日記。

○美濃国関ハ惟然坊ノ古郷。弁慶庵と言旧庵アリ、八畳二間也。惟然生前ニ娵一人、懐妊シテ行脚ニ出、十八年ヲ経テ関ニ帰ル。娵ノ名、つ万と云を聞て両袖に只何となく時雨哉かの娵後尼と成てチカンと言。弁慶庵ニ住ス。今かの庵伝て尼の住庵トナリテアリ。

○関 広瀬宇左衛門宗麟 家ニ一軸あり。翁の茄子画ニ 見せはやな茄子をちきる軒の畑 素牛 脇ハ翁 其葉を笠に折ん夕顔 手跡ハ其角

あるひはしらゝ吹上ときくにうちさそはれて、ことし姨捨の月見ん事しきりなりけれは、みのゝ国よりいてやとおもひ立、木曾の麻きぬの浅からぬ友独したしき人の僕一人、かれ是旅寝の力として、山路のうさもまきらはし行に、道遠く日かすゝくなけれは、夜に出てくれて駅につく。おもふにたかはす、其夜更科のさとに到る。山は八幡といふ里より一里はかり南にあたりて、西東によこをりふせて、冷しう高くもあらす、かとかと敷岩なともみえす、たゞ哀ふかき山の姿なりけらし。慰ミかねしといひけむも理りしられて、そゝろに悲しふにたへたり。何故に老たる人を捨てつらんとおもふも、いとゝなミた落そひければ

   俤は姥ひとり泣月の友

      十六夜坂木と云処にて

   いさよひもまた更科の郡かな

      貞亨五年

ゆふかほや秋は色々のふくへ哉
   はせを

夕かほに米つきやすむあはれかな
   蕉散人桃青

   いせにて龍尚舎と云ける
   有職の人に逢て

ものゝ名を先とふ荻のわかはかな
   はせを

歌書よりも軍書にかなしよしの山
   東花房

○ミノ国、赤坂垂井ノ間、青墓ノ里円願寺ニ義朝、義平、朝長の石碑アリ。照手姫ノ影アリ。牛若丸誓ノ葭竹アリ。右義朝公旧跡ノ所謂ハあふはかの長ノ娘を愛せられし故とそ。

不破関ハ関ヶ原・今須ノ間、松尾村といふ所也。関屋の跡、今高石垣ニ而昔ノ関守ノ子孫ノよし。

一 不破ノ西ニ山中村と云アリ。爰ニ常盤御前の石碑アリ。

一 養老滝、高サ十六丈と里人申。滝より五丁程下ニ天神宮アリ。社中より二筋の流レ出る菊水と云。又此宮より三丁下ニ滝寿山養老寺と云。滝守護ノ不動尊あり、前ニ大キなる松アリ、徳永松と云。

一 今尾足立氏の許に翁の真跡アリ ひよろひよろと猶露けしやおミなへし おミなへしの画ハ益重書之とアリ 芭蕉桃青トアリ印一ツ也。

一 麦林 夕顔の花に不形ハなかりけり 夕顔の画アリ。

一 挙母、岡崎辺、松葉ヲごト云。スベテ三州ノ国語ト見へたり。

鐘撞の独いそかし秋の暮
   ナコヤ 白尼

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