嵐山 六月や峯に雲置あらし山
『笈日記』(支考編) |
『三冊子』(土芳著)にこの句、落柿舎の句也。「「雲置嵐山」といふ句作、骨折たる処」といへり。とある。 |
ほとゝぎす大竹原を漏る月夜
『笈日記』(支考編) |
野の宮のやぶ陰にわびしき槌の音しけるを |
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鍬鍛冶に隠士尋ねん畑の霜 | 其角 |
野々宮 |
野々宮の花表に蔦もなかりけり |
『蕉翁句集』、『俳諧一葉集』にも芭蕉の句としているが、『皮籠摺』(涼莵編)に涼菟の句として収録されている。 |
野ゝ宮の鳥居に蔦もなかりけり 蓼云、此句涼菟句撰に出たり。貞享記行見合へし |
元禄13年(1700年)、服部嵐雪は野宮神社に参詣している。 |
のゝ宮にまいりて、 嵯峨中のさびしさくゝる薄かな |
明和8年(1771年)、加舎白雄は野々宮を訪れた。 |
野々宮 秋風や虫の髭ふく二はしら
「春秋菴白尾居士記行」 |
安永3年(1774年)4月、士朗は蕪村・暁台等と共に嵯峨に吟行。 |
嵯峨吟行 |
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京 |
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みしか夜の闇より出て大井川 | 蕪村 |
筏踏て鮓桶あらふ女かな | 几菫 |
雅因か苑在樓に眺望して |
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みとり深く夕雨めくる嵐山 | 曉臺 |
夏の山たゝ岑丸く成にけり | 宰馬 |
小倉山鹿の子やわたる路の欠 | 士朗 |
桐咲て嵯峨にあてなる色香哉 | 仝 |
たはやすく御心にまかせて参でたまふべき御住み処にはたあらねば、おぼつかなくて月日も隔たりぬるに、院の上、おどろおどろしき御なやみにはあらで例ならず時々なやませたまへば、いとど御心の暇なけれど、つらきものに思ひはてたまひなむもいとほしく、人聞き情なくやと思しおこして、野宮に参でたまふ。
『源氏物語』(賢木) |
導かれて近傍の名所を探る、野々宮 冷かに竹藪めぐる樫の木の木の間に青き秋の空かも |
昭和12年(1937年)、石田波郷は『鶴』を創刊・主宰。 昭和30年(1955年)、村山古郷は「鶴」同人となる。 昭和53年(1978年)、鴫立庵第二十世庵主。 昭和61年(1986年)4月6日、嵯峨野俳句会句碑建立。 昭和61年(1986年)8月1日、村山古郷没。 |
嵯峨野主宰村山古郷先生は、明治42年に京都に生まれ、国学院大学をご卒業、幼時より令兄の葵郷(ききょう)氏に俳句を学ばる。上京後、内田百間先生に師事し、大須賀乙字系「草上」、「東炎」、同人を経て戦後に「べんがら」を主宰さる。 現在村山古郷は、社団法人俳人協会理事・鴫立庵第廿世庵主、嵯峨野主宰。句集に、「軒」、「西京」、「金閣」、「古京」その他に著書に「大須賀乙字傳」「石田波郷傳」「文人句集書誌並に「明治」「大正」「昭和」各俳壇史等多数「明治俳壇史」上梓に方り昭和53年芸術選奨文部大臣賞受賞、昭和60年俳句に於ける功績により勲四等を受勲され、現在に至る。 |