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落柿舎 五月雨や色紙まくれし壁の跡 |

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ここは、蕉門十哲の一人として名高い向井去来(慶安4年(1651)〜宝永元年(1704))の閑居の跡として知られている。当時、庭にあった40本の柿の実が一夜のうちにほとんど落ちつくし、かねて買約中の商人を気の毒に思って価を返してやった。これが落柿舎の名の由来である。 芭蕉も晩年、3度当庵を訪れ、名作『嵯峨日記』を著した。 庭には去来のよんだ 柿主や梢はちかきあらし山 の句碑がある。 去来は長崎の生まれ、芭蕉に師事して俳諧を学び、その芭蕉をして「洛陽に去来ありて、鎮西に俳諧奉行なり」といわしめた。かつて武人であった去来は極めて篤実真摯な人柄で、芭蕉に仕えるさまは、ちょうど親に対するようであった。 その句 鴨なくや弓矢を捨てて十余年 はよく知られている。 |
| 鉢たゝき聞にとて、翁のやどり申されしに、はちたゝきまい(ゐ)らざりければ |
| 箒こせまねてもみせん鉢扣 | 去来 |
| 明けてまい(ゐ)りたれば |
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| 長嘯の墓もめぐるかはち敲 | 翁 |
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元禄4年(1691年)4月18日から5月4日まで落柿舎に滞在。『嵯峨日記』は、この時の日記。 元禄7年(1694年)閏5月22日から6月14日まで落柿舎に滞在。 |
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6月15日、芭蕉は膳所「無名庵」へ。 7月5日に上洛し、中旬に郷里伊賀へ出発する。 |
| 「芽立より二葉にしげる柿の実(さね)」と申侍りし |
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| はいつの年にや有けむ。彼落柿舎もうちこぼ |
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| すよし、発句に聞えたり。 |
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| やがて散る柿の紅葉も寐間の跡 | 去来 |
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元禄8年(1695年)、落柿舎再建。 |
| 落柿舎普請の比 |
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| 屋根崩す鎌のしり手や柿紅葉 | 可南女 |
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○嵯峨落柿舎舊跡 柚の花に昔を忍ふ臺所ゆかしく尋ね尋るにそれと指さす人なし一老人曰去來といへる俳諧師はしらすそのかみ向井不閑と聞えし浪客ははしめ乘見山の北にすみ後に安堵橋の西へ居を轉したるよしその前後の二處も今は草麥の畠となりて殘れりといふのみさたかならす 柿の花柚の花いつれ菴のあと |
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明和7年(1770年)、蝶夢門下の井上重厚が落柿舎再建。 明和8年(1771年)、加舎白雄は嵯峨を訪れている。 |
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嵯峨一見して、 嵯峨の秋軒行人も淋しひか |
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安永3年(1774年)4月、井上士朗は落柿舎を訪ねている。 |
| 落柿舎にて |
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| 茄子植る人に尋てさかの菴 | 士朗 |
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大正7年(1918年)、阿波野青畝は京都を離れるにあたり、落柿舎あたりを歩いてみた。 |
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緋連雀一斉に立つてもれもなし
『定本 萬 両』 |
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悪性感冒が全国に大流行した。医者は手を下すすべもなかった。死んだ医者もあるほどの悪い年であった。京都にいた私は忽ち兄二人をうしなったので、郷里高取によびもどされた。 京をはなれるとなれば名残がある。落柿舎あたりを歩いてみたく、ただぶらぶらと細い藪のみちを拾う。そして誰にもあわぬ孤独をしみじみ味わった。つめたく熟れた烏瓜を引きちぎった。そのとき小鳥が忙しく渡っていった。目の前に一群の緋連雀が来た。敏捷な挙動をとりながら統率がとれている。赤い冠毛がとても可憐だ。しかし、次の瞬間には一羽もいなくなった。掃きすてたようにほんとうに見えない。この句がいいのかどうか、自身がわからない初心者である。ただ勢の感じられるところが他の句よりも良いかなと思う程度だった。 |
