俳 人

溝口素丸

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 本姓は吉田。名は勝昌。通称は十太夫。長谷川馬光の門人。初号白芹。其日庵三世。別号渭浜庵、絢堂、天地庵。

本所割下水長崎町中ノ橋近所 溝口十太夫御隠居 渭浜庵 素丸


初代其日庵は山口素堂、二世其日庵は長谷川馬光。

 正徳3年(1713年)8月26日、江戸に生まれる。

 延享3年(1746年)、34歳で其日庵を継承。

 寛延4年(1751年)、蓼太宗瑞らと『続五色墨』刊行。

 明和5年(1768年)、素丸は龍眼寺に芭蕉の句碑を建立。



濡て行人もをかしや雨の萩

都内の芭蕉句碑の中で最も古いものだそうだ。

 天明2年(1782年)8月、はいかいまつの色』立砂編)。素丸序。

時ありて人の目につく紅葉かな

はいかいまつの色』

 天明5年(1785年)、加藤野逸に其日庵を譲り、渭浜庵と名乗る。

渭浜庵は隅田川河口の浜町にあった。隅田川を渭水に見立てたもの。

素丸の時、素堂を祖とする「葛飾蕉門」なる俳系が誇示された。

小林一茶は俳諧を葛飾派に学ぶ。

 天明7年(1787年)、素丸は新海自的編『真左古』の序文を書いている。

是からも未だ幾かへりまつの花
   渭浜庵執筆一茶

この上に幾春積ん米車
   東武渭浜庵七十八歳素丸

『真左古』

天明7年(1787年)、一茶は既に素丸の執筆を務めていたことになる。

 天明8年(1788年)、素丸は森田安袋編俳諧五十三駅』の序文を書いている。

 寛政元年(1789年)8月9日、小林一茶は象潟を訪れる。

   二六庵奥羽紀行餞別

霞行やその末松合歡までに


 『葛飾蕉門文脈系図』に拠れば、寛政2年(1790年)3月13日竹阿没後、4月7日素丸に入門。

 一茶 二六菴 小林菊明

 信州善光寺に住し、寛政二年戌四月七日入門。後判者にすすみ、竹阿の号を称し、文化年中一派の規矩を過つによつて、白芹翁永く風交を絶す。奥羽紀行あり。

『葛飾蕉門文脈系図』

 寛政2年(1790年)、野逸は泥山馬光居士五十回追福を営む。

鋸山の日本寺に長谷川馬光の句碑を建立。素丸の筆だそうだ。

馬光の句碑


引きおろす鋸山の霞かな

同年4月1日、碑の除幕式が行われ、一茶も列席した。

記念集『霞の碑』刊行。其日庵野逸序。

 同年、素丸は『秋顔子』刊行。野逸序。

浮世では酔ふものなくて紅葉かな
   馬泉

今迄は踏れて居たに花野哉
   一茶

納豆の糸引く夜半やはつ氷
   野逸

すいすいと風ひとり行枯野哉
   素丸

汐浜を反故にして飛ぶ鵆(ちどり)かな
   一茶

同年末、素丸の執筆を務める。

年の暮人に物遣る藏もがな   渭浜庵執筆一茶

『我泉歳旦帖』

 寛政3年(1791年)春、一茶は素丸の渭浜庵に別れを告げて帰郷。

旅の紀行文が『寛政三年紀行』である。

留別渭浜庵

かく賤しかりき(し)身をば御取立
下され既に執筆の役を
(蒙)りしがおもはずも遠國
のたらちね病躰たゞならね
ば三十日余りの御いとまいたゞ
くことの有難く、若(もし)父本腹(復)もあら
ばとみに帰参して亦々
御召つかひ之程奉希(ねぎたてまつる)物ならし。

華のもと是非来て除掃(掃除)勤ばや

惣御連中へ留別。

華の友に又逢ふ迄ハ幾春や

「渭浜庵留別文」

素丸は一茶に餞別南鐐二片を贈る。

別れても亦寄そへる柳哉

南鐐二片

「渭浜庵留別文」

「南鐐」は二朱銀。銀一両の8分の1。

寛政7年(1795年)7月20日、素丸83歳で没。

寛政8年(1796年)、『素丸發句集』(絢堂編)刊。

桃青寺で素丸忌が営まれていたようである。

   七月廿日素丸遠忌

かつしかやなむ廿日月草の花


文化8年(1811年)7月20日は素丸の十七回忌。

素丸の句

時鳥一声四百八十寺


曙の雲まきらはし山さくら


白兎園は前五色の一羅漢也予も交り常ならす或時扇に句を望けれは

   山も今朝雲一重着て秋は来ぬ

と書て給ひし事なと今の様に思ひ出られて

尾花にも其語り句や其あふき


葉落ても櫻さためんけふの月


日にくらべ月に競てぼたんかな


紅梅や風呂に酔ふたる児の顔


秋よりも遠きは香なり朧月


岩からむ杖や砧のはこね山


鶯の腹合よくて初音かな


乗て来る月日は早し蓮の花


郭公はや戸隠しの峰の雲


花むくげ小町乞食の小屋いづこ


影そゞろ地に落付ず朧月


鹿なくや葛のうら吹夕より


元日や此気で居たら九千歳


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