俳 人

織本花嬌・子盛
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 女流俳人織本花嬌は、元文年間(1736−41)に旧西川村(現在富津市西川)の名主小柴庄左衛門の娘として生れ、本名を園といったが、長じて隣村の旧富津村の名主織本嘉右衛門に嫁した。対潮庵とも号し、同時代の雪中庵蓼太や小林一茶など当時の一流俳人らと親交があった。

 織本嘉右衛門は俳句を嗜み、砂明(さみょう)と号した。花嬌の弟も砂明と号し、華蔵院の二一世住職となった。

 寛政10年(1798年)2月、鹿野山神野寺に芭蕉の句碑を建立。



最中の桃のなかより初さくら

 文化元年(1804年)7月2日、一茶は木更津から富津に入る。

   二日 晴 富津ニ入

秋立や身はならはしのよ所[の]窓

『文化句帖』(文化元年7月)

 文化2年(1805年)2月6日、一茶は花嬌に書状を出している。

〃(二月六日)
一書一通 富津花嬌 小田原町万屋万右衛門へ出


花嬌は文化7年(1810年)4月3日、花嬌没。

富津の大乗寺に織本花嬌の墓がある。

普戴山大乗寺


織本花嬌の墓


妙蓮院珍誉寳臺花嬌禪尼

文化七午四月三日

花嬌の長女曽和と一緒の墓石である。

曽和の婿養子が道定で、子盛と号した。

 文化7年(1810年)7月13日、一茶は花嬌の百カ日忌に大乗寺を訪れる。

十一 晴 夜舟ニ乗
十二 晴 牛(午)刻木更津ニ入
十三 晴 八ツ時大夕立 富津大乗寺ニ入

十三日 百カ日花嬌仏

艸花やいふもかたるも秋の風

(あさがお)の花もきのふのきのふ哉

『七番日記』(文化7年7月)



 文化8年(1811年)6月17日、一茶は子盛と舟で百首に入る。

   [十]七 子盛同道舟にて百首ニ入

『七番日記』(文化8年6月)

同年7月10日、一茶は子盛を訪れる。

   十 晴 子盛ニ入 四万六千日

『七番日記』(文化8年7月)

 7月10日は観世音菩薩の縁日。この日に参詣すると、四万六千日参詣したほどの功徳があるという。

 文化9年(1812年)4月3日は花嬌の三回忌。翌4日の追善会に一茶は参列する。

三 晴 花喬(嬌)仏三回忌
四 晴 北風吹 未刻ヨリ雨 終夜不止 花喬(嬌)追善会



   四日 花喬(嬌)

目覚しのぼたん芍薬でありしよな

何をいふはりあひもなし芥子の花

『七番日記』(文化8年7月)

 同年4月10日、一茶は織本家に入る。当主は花嬌の娘婿道定で、子盛と号した。16日、花嬌の弟砂明もやってきた。砂明は24日まで滞在。一茶は27日まで滞在し、大乗寺へ。

   十 雨 折々晴 巳刻地震 ヲリ本ニ入
   [十]六 晴 砂明上人来
   [廿]四 朝雨 陰 砂明上人帰

『七番日記』(文化9年4月)

同年5月3日、『花嬌家集』並びに『追善集』の編集が終わる。

三 晴 花喬(嬌)家集并(並)追善集 五月十二日書始 今日終

『七番日記』(文化9年5月)

「五月」は「四月」誤りではないか。

 文化11年(1814年)10月6日、一茶は織本家に入る。

   六 晴 ヲリモトニ入

『七番日記』(文化11年10月)

翌7日、一茶は金谷へ。

 文化12年(1815年)11月23日、一茶は木更津から富津に入り、砂明に逢っている。

   [廿]二 晴 木皿ツ(更津)ニ入
   [廿]三 晴 フツニ入 逢砂明

『七番日記』(文化12年11月)

同年12月1日、一茶は富津に入る。

   一 晴 フツニ入

『七番日記』(文化12年12月)

 文化14年(1817年)5月5日、一茶は富津に入り、翌6日は織本家に泊まる。

   五 晴 フツニ入
   六 晴 ヲリ本泊

『七番日記』(文化14年5月)

一茶が織本家を訪れた最後の記録である。

同年6月27日、一茶は江戸を立つ。以後、江戸に出ることはなかった。

花嬌の句

袷着て白き扇子のはつ音哉


鳥遊べ初手の時雨ハ木隠るゝ


冬枯や中(仲)よく見ゆる三軒家


庵の夜をくるりくるりと螢かな


春風や女ぢからの鍬にまで


名月や乳房くはへて指して


子盛の句

おく露や手にとるやうな夜の空


置露や手にとるやうな夜の空


置露や手にとるやうな夜の空


あさがほにおつつぶされし草家哉


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