芭蕉ゆかりの地


古池や蛙飛びこむ水の音

 都電荒川線の終点早稲田停留場で降りて神田川に沿って歩くと、新江戸川公園の隣に関口芭蕉庵がある。


青空に枝垂れ桜。


逆光なので、暗くなってしまった。

 芭蕉は延宝5年(1677年)から延宝8年(1680年)まで神田川改修工事に参画し、「龍隠庵」と呼ばれる庵に住んだと伝えられている。後に世人は「関口芭蕉庵」と呼んだ。

さみだれ塚


『諸国翁墳記』に「五月雨塚 江戸關口水神アリ 馬光建」とある。

 寛延3年(1750年)8月12日、山口素堂の弟子長谷川馬光が中心となり芭蕉の短冊「五月雨に隠れぬものや瀬田の橋」を埋めて墓とした。

昔上水開発の頃、芭蕉翁(芭蕉翁、通称松尾甚七郎といひ、藤堂家の士(さぶらひ)たり。 この上水堀割の時、藤堂家へ普請の事を命ぜられしに、甚七郎この事を司どりし故、その頃この地に日々遊ばれしといへり。)この地に遊ばれしにより、後世その旧跡を失はん事を嘆き、白兎園宗瑞及び馬光などいへる俳師、この地の光景江州瀬田の義仲寺に髣髴たるをもて、五月雨に隠れぬものよ瀬田の橋、といへる翁の短冊を塚に築き、五月雨塚と号す。

『江戸名所図会』(竜隠庵)

 貞亨5年(1688年)夏、『笈の小文』の旅の途上、大津で詠まれた句。芭蕉45歳の時である。

山口素堂は初代其日(きじつ)庵である。

馬光は二世其日庵。

[関口]竜隱菴 園中

五月雨墳

碑陰

 祖翁瀬田のはしの詠吟を以て是を建る仍さみたれ塚と称す

   寛延三年八月十二日

     夕可庵門生

       園 露什

       酒 芬路(露)

 此地は関口上水開発の頃藤堂家へ修理を命ぜられし其時翁俗姓松尾氏と申せし比此事を司とりて此地に日々来りて憩玉ひし旧地なりと申伝ふ


さみだれ塚の隣に芭蕉堂がある。


 享保11年(1726年)、芭蕉三十三回忌に建てられ、芭蕉の像が祀(まつ)られた。

 大正15年(1926年)、東京府の指定史蹟に編入。松宇伊藤半次郎氏が管理人として住んでいた。

 昭和13年(1938年)3月31日、火災。8月9日、上棟復旧。

 昭和20年(1945年)5月10日、永井荷風は関口芭蕉庵を訪れている。

晴、ホ(※「日」+「甫」)下散歩、小瀧橋よりバスに乘り早稲田に至る、高田の驛を過るに見渡すかぎり焼原なり、線路土手の草のみ青きこと染むるが如し、バス終點より歩みて駒塚橋を渡る、目白臺の新樹鬱然、芭蕉庵門内の老松また恙なく緑の芽の長く舒(の)びたるを見る、門の柱に小石川区區關口臺町廿九番地、史蹟芭蕉庵、また服部富服部敏幸とかきし小札を出したり、門外の急坂を上り路傍の小祠に賽し銀杏の樹下に小憩して後再び來路をバスに乘りてかへる。


 昭和20年(1945年)5月、関口芭蕉庵は戦災に遭ったが、芭蕉堂だけ残った。

芭蕉の句碑がある。


古池や蛙飛びこむ水の音

昭和48年(1973年)、芭蕉翁280年祭に建てられたもの。

文字はかすれてよく見えないが、芭蕉の真筆だそうだ。

 句は貞亨3年(1686年)、43歳の時の作。「深川芭蕉庵」で詠まれたもの。「関口芭蕉庵」で詠まれたわけではない。

著莪(しゃが)が咲いていた。


ふと気が付くと、足下に菫(すみれ)


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