この神社は古代天皇の命を奉じて東征の途についた日本武尊(やまとたけるのみこと)がこの地に滞在されたことから白鳥神社と稱し、古代から中世の豪族、海野氏の祖と云われる貞元親王・善淵王・海野広道公を祭神としています。 |
治承5年(1181年)義仲27歳の6月、後白河法皇の第二皇子高倉宮以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)に応じ、平家追討のため大豪族海野氏の根拠地であるここ海野郷「白鳥河原」に挙兵した。 馳せ参ずる者、地元滋野一族をはじめ、義仲の四天王樋口次郎兼光・今井四郎兼平・根井小弥太・楯六郎親忠の武将を中心に、信濃、西上州の将兵等約3千余騎が集結した。 白鳥河原で挙兵した義仲は、まず平家の先鋒越後国の城氏の大軍約6万余騎を横田河原にて撃破し、つづいて寿永2年(1183年)5月、越中と加賀の国境砺波山の戦で平家の大群を破り、北陸道・近江を制圧し、同年7月京都入りをはたした。 翌年の寿永3年(1184年)1月、征夷大将軍に任ぜられたが、その十数日後、宇治瀬田の戦で敗れ、近江粟津で戦死した。
東部町教育委員会 |
文化9年(1812年)11月14日、一茶50歳の時、江戸を引き上げる。22日、海野宿に泊まる。 |
廿二晴 海野泊 夕過の臼の谺の寒哉
『七番日記』(文化9年11月) |