2006年群 馬

中山道坂本宿〜芭蕉の句碑〜
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上信越自動車道松井田妙義ICから県道51号で国道18号へ。

「碓氷峠鉄道文化むら」を過ぎて、国道18号の旧道を行く。


坂本公民館(生涯学習センター)があった。


坂本公民館(生涯学習センター)は「酒屋」で、坂本宿脇本陣だったところ。

道を挟んで南隣が「脇本陣永井」


 日光例幣使の一行は毎年4月1日に京都を出発し、4月10日に坂本宿に宿泊した。

 元禄4年(1691年)10月9日、森川許六は彦根藩中屋敷を出て彦根藩に帰る。11日、坂本宿に泊まる。

からふ(う)じて坂本にとまりぬ。ぬれたるものなどかはかして、焼火してたびのうさをわすれ侍ぬ

鉢の木やゆ殿に入し
植木ずき浪人やらん雪の宿


坂本公民館(生涯学習センター)の北側に「鍵屋」


昔の宿屋の風情が保存されている。

「蔦屋」は若山牧水が泊まった宿。

若山牧水宿泊の「つたや」

 碓氷峠にアプト式鉄道が開通してから15年後の明治41年ごろになると、繁栄を極めた坂本宿もすっかり見る影を失い寂れてしまった。

 この年の8月6日、牧水は軽井沢に遊んでから碓氷峠を越えて坂本に宿をとろうとした。ただ一軒残っている宿屋「つたや」に無理に頼んでとめてもらうことにした。

 寝についても暑さで寝つかれず焼酎を求めに出、月下の石ころ道を歩きながらふと耳にした糸繰り唄に一層の寂寥感を覚え口をついて出たのが次の歌である。

秋風や碓氷のふもと荒れ寂し坂本の宿の糸繰りの唄

明治26年(1893年)4月1日、横川〜軽井沢間にアプト式鉄道が開通。

「たかさごや」は小林一茶の定宿

一茶の定宿「たかさごや」

 信濃国柏原が生んだ俳人小林一茶(1763−1827)は、郷里と江戸を往来するとき中山道を利用すると、「たかさごや」を定宿としていた。寛政・文政年間、坂本宿では俳諧・短歌が隆盛し、旅籠、商人の旦那衆はもとより馬子飯盛女にいたるまで指を折って俳句に熱中したという。

 それで、ひとたび一茶が「たかさごや」に草鞋を脱いだと聞くや近郷近在の同好者までかけつけ自作に批評をあおいだり、俳諧談義に華咲かせ、近くから聞こえる音曲の音とともに夜の更けることも忘れたにぎわいを彷彿させる。碓氷峠の刎石(はねいし)山の頂に「覗き」と呼ばれところがあって坂本宿を一望できる。一茶はここで次の句を残している。

坂本や袂の下は夕ひばり

坂本宿上木戸


芭蕉の句碑があった。

芭蕉の句碑


ひとつ脱てうしろにおひぬ衣かへ

 享和2年(1802年)4月3日、太田南畝は坂本宿に泊まる。

こよひは肥前少将泊といへるせき札ありて、本陣脇本陣よりはじめて諸士のやどりみちみちたり。かなき屋七右衛門といへる宿にとまれり。庭に躑躅の花紅なり。


 文政7年(1824年)5月、川村碩布は「善光寺詣」の旅に出立。横川の関を越えて、坂本宿に泊まっている。

 横川の関、横川の橋打越て坂本の駅に伏、夜ひとよ降明したる雨の花やかなる旭に引かへてそゝろめてたき旦也けり、

『善光寺詣』

 文久元年(1861年)11月9日、皇女和宮は碓氷峠を下り、坂本宿金井本陣に宿泊した。

旧中山道碓氷峠へ。

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