前橋文学館前の「朔太郎橋」に北原白秋、室生犀星、草野心平の詩が書かれた銘板がある。 大正3年(1914年)2月、室生犀星は来橋、当時岩神町1丁目にあった下宿屋「一明館」に約1ヶ月間滞在した。 大正4年(1915年)1月、北原白秋は初めて前橋を訪れ、約1週間朔太郎の家に滞在した。 大正12年(1923年)、白秋は再び妻子と朔太郎を訪れて1泊している。 |
信州の沓掛ではまだ冬だったが、碓氷峠を越えると、妙義へかけて燃ゆるやうな新緑であつた。そのところどころに また深山つつじが咲き盛つてゐた。晩冬から初夏へ一二時間で飛び越して了つた。それから前橋まで下るといよいよ夏らしくなって、楓の花などが、そこらの寺の庭にちりしいてゐた。桑の畑も緑が深かつた。 萩原朔太郎君をたづねると、日の丸の旗が門先にひらひらしてゐた。ほう今日は何の祭日かなときくと、いや、あんたが来るから出したのだと云つた。さう云へば日の丸の國旗を出してゐるのは萩原君の家ばかりであつた。目睚(正しくは目+匡)があつくなるほどうれしかった。私は妻子と一泊さして貰つて翌日上京した。
「詩と音楽」(大正12年6月号)より |
重たいおほきな翅をばたばたして |
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ああ なんといふ弱弱しい心臟の所有者だ。 |
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花瓦斯のやうな明るい月夜に |
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白くながれてゆく生物の群をみよ |
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そのしづかな方角をみよ。 |
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この生物のもつひとつのせつなる情緒をみよ。 |
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あかるい花瓦斯のやうな月夜に |
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ああ なんといふ悲しげな いぢらしい蝶類の騷擾だ。 |
『青猫』(1923年刊)より |
萩原朔太郎が郷里前橋にあった頃、この辺一帯は榎町と称し、繁華街の中心地であった。碑面の写真は詩人自らが撮影した昔日の風景である。ここから西へ約200米。そこには萩原家の菩提寺「政淳寺」があった。詩人はしばしば墓参のため訪れ、晩年には父の墓に詣でて、「物みなは歳月と共に亡び行く」の散文詩を書き残した。いまはその寺院も他へ移転し、跡かたもない。詩人の胸中を去来した、ありし日を偲び、時の市民ゆかりの地に記念碑を建立する。
萩原朔太郎研究会より |