俳 人

堀麦水
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 通称池田屋平三郎。別号樗庵。伊勢派の乙由の子麦浪に師事して麦水の号を与えられた。

 享保3年(1718年)、金沢の竪町に生まれる。

 延享3年(1746年)6月、中川麦浪は堀麦水に迎えられて、金沢に入る。

宝暦5年(1755年)秋、麥水連中は秋日塚を建立。



あかあかと日はつれなくも秋の風

 宝暦6年(1756年)春、竹阿は門人呉江を伴って北国路を歴遊、金沢の麦水を訪れる。麦水に二柳への手紙を託された。

 宝暦12年(1762年)3月、千代尼は吉崎御坊参詣の途上、麦水を訪ねている。

 宝暦13年(1763年)7月、『早稲の道』(知十撰)。麦水序。

 明和2年(1765年)、魚津の知二斉倚彦は「小貝塚」を建立。堀麦水の筆。



 明和3年(1766年)秋、竹阿は阿波の徳島で二柳に会い、その責を果たす。

   ○対三四坊辞

十年の昔、賀の金城に旅寐する折から、犀川の麦水曰、「爰に三四坊といへる者あり。風雲にまかせて今其止る所をしらす。杖を曳の先にまみへは、故郷に母あり、頓に旧里に帰らん事をすゝめくれよ」と切に約せしに、予も東西に漂泊して有しか、其所をしらす。ことし不知火の帰さ鳴戸一見せんと、阿波の徳嶌に来りてまみゆる事を得て、往事を盡すに其事果しぬれと語り合ふて、互の無事をよろこふ。

   十年の噺に足らぬ秋の日そ

『其日くさ』(竹阿編)

安永5年(1776年)、『新虚栗』編。

安永6年(1777年)、『新虚栗』刊。

天明3年(1783年)、66歳で没。

麦水の句

名月や折て見たれは只の枝


來る秋も落馬はあらし女郎花


日最中の花靜也虻の聲


枯野ゆく人はちいさし初しくれ


蝉の行すへの低さやけさの秋


日最中の花静也虻の声


鳥啼や藪は菜種の走り咲


先へ行く馬は艸喰ふ霞哉


夜はついに明て只居る蛙かな


蛙啼く流れよどむや馬の沓


杜宇穂麦が岡の風はやみ


朧夜の二階灯光る柳中


松一里帰路暑き日を荷ふ哉


何見ると問人多し春の月


うら垣やしらざれ李(すもも)日や倦(うめ)


人は四十一葉や我をはつかしむ


桃実生子と植なとし夕への日


よはよはと日の行届く枯野かな



白魚やあら浪かゝるものをなす



此牡丹白くワびしきは我友歟


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