俳 人
勝見二柳
二柳の句
名は充茂。桃妖に俳諧を学び桃左と号し、のち桃居と改めた。
なほ見ばや接穂の桃の花ざかり 桃妖
暮柳舎希因の門に入り、二柳と改号。不二庵。三四坊。
可都里『名録帖』に「二柳大坂河原町八百屋町東南門 不二庵」とある。
享保8年(1723年)、加賀山中に生まれる。
宝暦6年(1756年)春、竹阿は門人呉江を伴って北国路を歴遊、金沢の麦水を訪れる。麦水に二柳への手紙を託された。
宝暦12年(1762年)、二柳は京都より讃岐を訪れ丸亀で越年。『壬午紀行』
明和のころ、阿波藩に仕えていた子息を頼って徳島を訪れる。
徳島市の滝薬師に不二庵二柳の句碑がある。
散るたびに心をさそう桜かな
明和3年(1766年)秋、竹阿は阿波の徳島で二柳に会い、その責を果たす。
○対三四坊辞
十年の昔、賀の金城に旅寐する折から、犀川の麦水曰、「爰に三四坊といへる者あり。風雲にまかせて今其止る所をしらす。杖を曳の先にまみへは、故郷に母あり、頓に旧里に帰らん事をすゝめくれよ」と切に約せしに、予も東西に漂泊して有しか、其所をしらす。ことし不知火の帰さ鳴戸一見せんと、阿波の徳嶌に来りてまみゆる事を得て、往事を盡すに其事果しぬれと語り合ふて、互の無事をよろこふ。
十年の噺に足らぬ秋の日そ
『其日くさ』(竹阿編)
明和6年(1769年)、讃岐に遊び大野で落馬。不二庵と号す。「不二観の記」
明和8年(1771年)、49歳の頃大阪に定住。
難波の春に御移りの由致安堵候
あしからぬ便りや浦も三つの朝 琴路
安永2年(1773年)頃、遊行寺で芭蕉忌会式俳諧を始める。
天明3年(1783年)3月12日、二柳庵桃居社中は芭蕉の句碑を建立。本堂に芭蕉木像を納めた。
絶筆句
旅に病んて夢は枯野をかけ廻る
二柳の句が刻まれている。
とし経ぬるこゝろはせをやわすれ霜
天明3年(1783年)4月、上洛した折に蕪村宅に1泊している。
寛政4年(1792年)冬、『吐雲訪問句画帖』浪花散人不二菴序。
寛政10年(1798年)、二条家から中興宗匠の称号を許される。
寛政12年(1800年)秋、茅渟奇淵は芭蕉「松風碑」を建立。
松風の軒をめぐりて秋くれぬ
碑陰に不二庵桃居の「正風宗師松風碑賛」が記されている。
をしてるやよし芦のなに波江に
|
影うかふせの昔ゆかしき
|
いしふみの石まつかせの松
|
こゝに翁のあとは絶せし
|
|
芭蕉三世劣孫 不二庵桃居誌
|
寛政12年(1800年)11月25日、大江丸は184日の旅を終えて大坂に帰る。
大江丸老翁の東武よりつゝがなき登坂を待うけたり。其勇健
いやはや言語同断
口でこそ申せ八十雪のたび 不二菴
享和3年(1803年)3月28日、81歳で没。
廿六日 雨 二柳没 三月廿八日
『享和句帖』(享和3年4月)
大阪市の梅旧院に「不二庵二柳墓」がある。
文化元年(1804年)3月、二柳の一周忌に「不二庵之碣」を建立。
俳諧作主 不譲芭蕉 門徒数千 厥猷孔昭
このページのトップに戻る
俳 人に戻る