2014年福 岡

筥崎宮〜燈籠堂〜
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福岡市東区箱崎に筥崎宮(HP)がある。


参道の右手に恵光院があったので、立寄る。

燈籠堂(恵光院)

天正15年(1587年)、九州平定を終えた豊臣秀吉は筥崎宮に滞陣し、焼け野原になった博多の復興を命じました。そのおり、茶人の千利休は、豊臣秀吉や博多の豪商神屋宗湛らを招き、堂の周辺で茶会を開きました。当時、堂は筥崎宮の境内にありましたが、明治維新の神仏分離により当寺に移されました。創建当初は三重閣の堂で、上閣に燈籠をかかげ、それぞれに観音様を安置していたと伝えられています。現在、堂の前には樹齢約200年の菩提樹の木があり、6月には見事な花を咲かせます。

菩提樹の木


科の木(しなのき)科で、釋迦が菩提樹の木の下で悟りを開いたとされる。

釈迦が亡くなったのは沙羅双樹の木の下。

菩提樹の花


釈迦が実際に悟りを開いたのは桑科の熱帯樹「インド菩提樹」の下だそうだ。

恵光院本堂


恵光院由緒

瑠璃山医王密寺恵光院は官幣大社の筥崎宮の西約300メートルに位置し、高野山真言宗に属し、総本山金剛峯寺の末寺で薬師如来を本尊とする。

當院の創建は後水尾天皇の御宇寛永の中頃で、筑前藩主黒田忠之公の開基、開山は八幡筥崎宮座主坊五智輪院中興法印正範大和尚である。

一ノ鳥居


慶長14年(1609年)、福岡藩主黒田長政建立。

後日、撮った写真である。

御神木筥松


筥崎宮の御祭神、応神天皇が筑紫国宇美の里(粕屋郡宇美町)にてお生まれになった時(西暦200年)その御胞衣(おえな)を筥に納めて浪の音も静かな白砂青松の浄地に埋め標(しる)しの松を植えたと伝えられている。

それがこのところであって、その後この地を箱崎と称え、この松を「標の松」又は「筥松」といい御神木として尊んでいる。

千早振る神代に植えし箱崎の

   松は久しき標しなりけり   『続古今集』

法印行清

 文明12年(1480年)10月1日、宗祇は筥崎宮を訪れ「標の松」を見ている。

御社に参れば、斎(い)垣したる松有。是なんしるしの松なるべし。先松に立寄り一ふさを取、しばし祈念いたし、

   古の法のためしに秋の霜を陰にお(を)さめよ筥崎の松

是はたゞ国家安全の願ひ事成べし。かくて神の前に参る。御殿の大なる事世に越え、しかも造営遠からで、玉を磨けり。


筥崎宮


筥崎宮は延喜式内社

「延喜式神名帳」(927年)に「八幡大菩薩筥埼宮」とある。

主祭神は応神天皇・神功皇后・玉依姫命。

筑前国一宮である。

 元寇の際に亀山上皇が「敵国降伏」を祈願し、神門に「敵国降伏」の扁額が掲げられたという。

 文禄年間、小早川隆景公が楼門建立の際、亀山上皇の御宸筆を模写拡大し掲げた。

 慶長3年(1598年)6月16日、石田三成は博多に着き筥崎宮を訪れたようだ。

筥崎の社は異國降伏のため西をまもれると聞傳へしも僞ならず、思ひよりしまゝに、

   他國もしたかひにけりかゝる世を待てや神のちかひあらはす、

博多の松原につゞきたる所也、ある時三成正松原に遊給ふ、いと凉しかりければ、

   松原はこぬ秋風のやとり哉、


 貞亨2年(1685年)3月、大淀三千風は筥崎宮に参詣した。

○生松原。姪濱。冷泉津。袖の湊。福岡城下。曹洞門安國寺。雪巖堂頭に珍談し。大湖山の記一軸略す。偖も當所は福岡。博多。二名一所。町屋一萬三千軒名にしおふ玉くしげ。箱崎の美景。日本無双の海眺なり。連集を倡(いざな)ひ。八幡宮に詣し。印の松を始て。三里の松原。塵だにすへぬ奇麗(きい)。社頭いとかうかうしく西にむかへばのこの島。志賀の島。すなはち磯良大明神の社地なり。

『日本行脚文集』(巻之四)

 享保元年(1716年)、露川は門人燕説を伴って西国を行脚。筥崎宮に参詣している。

   未雷子にいざなはれて、箱崎の八幡に
   詣でゝ、かの松原を廻る。

箱崎や麻に蓬の松林
 居士


 明和8年(1771年)5月、蝶夢は筥崎宮を訪れている。

箱崎の名は戒・定・恵の三学の箱を埋し故とも、また応神天皇降誕の時、御胞衣を箱に納めて埋し故にかく名付しともいふ。まさしくそのしるしに植し松をしるしの松とて、神前に今もあり。「跡たれて幾夜へぬらん箱崎のしるしの松も神さびにけり」。これらの古き証哥多し。

(中 略)

松原の中にまた鳥居立り。猶入る程に楼門あり。額は「敵国降伏」の四字也。延喜の御時、神勅ありて宸翰を染められけるとぞ。遙に異国の方に向ひて、敵国降伏の相をしめし給ふぞ忝き。此門は小早川左衛門督隆景の建立也。神殿は大内左京兆義隆朝臣の造立とぞ。松の林の中に松一本有。天正のころ豊臣大(太)、此所を遊覧ありけるに、千の宗易、松が枝に雲龍といふ釜をかけて、茶を点じて献ぜし跡とかや。


 天明6年(1786年)8月15日、沂風と祥然は筥崎宮の放生会に訪れている。

月の秋の八月十五日は名にしおへる箱崎の御社の放生会なり。およそ筑紫には五処八幡宮と申奉るあり。中にもわきてこの宮所は、御神の降誕し給ひけるとき御胞衣を箱にひめてこの浜辺に収奉りしより箱崎の名ありて垂跡のはじめなればや、こと所にすぐれて遠き国よりもあがめ奉る事なるに、ましてこの日は国の中ゆすりて詣ぬ。


 文政10年(1827年)、鶴田卓池は長崎へ旅立つ。

   博多八幡宮に詣て敵国降伏とある楼門の額を見る

わが国のかためや露の宮ばしら


 明治29年(1896年)9月、夏目漱石は夫人と北部九州旅行をして箱崎八幡を訪れている。

   箱崎八幡

◎鹹(しお)はゆき露にぬれたる鳥居哉

9月25日(金)子規宛て書簡

 明治40年(1907年)8月10日、与謝野寛北原白秋木下杢太郎吉井勇、平野万里の5人は汽車で千代の松原を走る。

 朝、汽車は千代の松原を走る。松緑にして砂白き古来の絶景である。此中に筥崎八幡香椎の宮がある。潮風の荒きに圧され、松は皆低く地を這ふ、砂は黄味を帯びた白色の石英質である。

「五足の靴」(砂丘)

 明治43年(1910年)3月6日、河東碧梧桐は筥崎宮に参詣した。

 箱崎に下車して、九州一の宮に賽し、多々羅浜辺の俳句会に列した。


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