13世紀後半の元(モンゴル)軍の来襲の際に、「我が身をもって国難に代わらん」と伊勢神宮などに敵国の降伏を祈願された亀山上皇の故事を記念し、福岡県警務部長(現在の警察署長)だった湯地丈雄氏等の17年有余の尽力により、明治37年(1904年)元冠に緑あるこの地に建立されました。高さ約6メ一トルを誇るこの像の原型となった木彫像は、当時、高村光雲門下で活躍していた、博多櫛田前町生まれの彫刻家山崎朝雲の代表作のひとつで、現在は筥崎宮の奉安殿に安置されています。 |
日蓮聖人は、文応元年(1260年)『立正安国論』を記し、当時の鎌倉幕府執権北条時頼にいち早く元(モンゴル)軍の襲来を警告しました。明治37年(1904年)に完成したこの銅像は、高さ10.55メートル、重さ74.25トン。8角形の台座には「立正安国」の文字と、日蓮聖人の一代記を描いたレリーフがはめ込まれています。この像の木製原型は、当時東京美術学校の教授で彫刻家竹内久一(たけのうちきゅういち)、レリーフの原画は洋画家矢田一嘯により作製されました。 |
われ日本の柱とならん われ日本の眼目とならん われ日本の大船とならん |
日本の鎌倉時代は、内外に危機がせまり不安に充ちた末法暗黒の世でした。その病める人々を救おうと、多くの宗教が生まれましたが、最後に日蓮聖人が出られ真の仏意を体し法華経の真理にもとづいて人類社会の根本解決のため「立正安国の宗教」を開かれたのです。 聖人は、あらゆる迫害にたえ、生命がけで真理の教えを弘められました。この<三大誓願>は、すべての人々を救わねばやまないという聖人のかたい誓いの言葉で「開目鈔」に書き留められました。ああ、なんと力強くあたたかくて大きい、ひろい心でしょうか。 碑の文字は、日本近代の初めに、純正日蓮主義を唱えて国柱会を創始した仏教の改革者田中智学先生の筆である。 |
東郷平八郎元帥は、法華経の篤信者であった。明治38年5月、日本海海戦で勝利を収めた後、同年8月19日、加藤友三郎参謀長等と共に博多に寄港し、松下直美福岡市長の案内で亀山銅像とこの日蓮銅像へ勝利御礼に参拝された。 また、大正9年4月8日には、皇太子殿下(昭和天皇)に従って再度両銅像に参拝された。 この銅像は、昭和10年に元帥の偉功を讃え日本海海戦会の有吉憲彰・中野昇外有志が、建立したものである。 当初、前面の銘板には「おろかなる心につくす誠をば みそなわしてよ天つちの神」という歌を付してあった。 これは大正3年4月、元帥が東宮学問所総裁に任命された時の感激を詠まれたものである。 その後、銘板が剥がされていたものを福岡鹿児島県人会・南洲会有志が改修し奉納するものである。 この胸像が日蓮聖人のお側に未来洋々立ち続けることを祈念して止まない。 |