虚子の句碑

高浜虚子

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 明治7年(1874年)2月22日、愛媛県温泉郡長町新町(現:松山市湊町)に旧松山藩士池内(いけのうち)政忠の五男として生まれる。柳原西の下に移り住む。

 明治14年(1881年)、松山城下に戻る。

 明治21年(1888年)、伊予尋常中学校(現:愛媛県立松山東高校)に入学。

 明治26年(1893年)、碧梧桐と共に京都の第三高等学校(現:京都大学総合人間学部)に進学。

 明治28年(1895年)5月17日、正岡子規が金州から帰国の輸送船中で喀血。23日、県立神戸病院に入院。27日、高浜虚子は京都から看病に行く。

 明治28年(1895年)10月31日、正岡子規は新橋停車場にて虚子、碧梧桐、鳴雪の出迎えをうけ根岸の子規庵に帰る。

 明治31年(1898年)10月、「ほととぎす」の発行所を東京に移して虚子が継承する。

 明治32年(1899年)5月21日、大腸カタル発病。同25日、神田駿河台山龍堂病院に入院。一時危篤。

 明治32年(1899年)6月17日、退院後修善寺温泉新井屋で療養。7月20日迄滞在。

 明治33年(1900年)12月16日、長男年尾が生まれる。

 明治34年(1901年)9月、麹町区富士見町に住む。

 明治36年(1903年)11月15日、次女立子が生まれる。

 明治39年(1906年)10月21日、次男友次郎が生まれる。

 明治43年(1910年)12月、鎌倉に転居。

 大正4年(1915年)1月9日、五女晴子が生まれる。

 大正5年(1916年)10月14日、長兄逝く。

 大正9年(1919年)1月22日、年尾は丹毒で小樽病院に入院。23日、虚子は年尾の見舞いに行く。25日朝、小樽着。

 昭和11年(1936年)2月21日、門司着。上海に向かう。

 昭和11年(1936年)6月8日、吉井勇は下関から門司に入る。10日、高浜虚子帰国。吉井勇は歌を詠んでいる。

 昭和12年(1937年)2月1日、河東碧梧桐は63歳で没。

 昭和19年(1944年)9月4日、信州小諸に移住。

 昭和22年(1947年)10月25日、鎌倉に帰る。

 昭和29年(1954年)、文化勲章受章。

 昭和34年(1959年)4月8日、虚子は85歳で没。

 昭和35年(1960年)4月8日、虚子筆塚建立。

大宮公園

(埼玉県さいたま市)

高浜虚子庵

(神奈川県鎌倉市)

虚子旧宅

(長野県小諸市)

高浜虚子住居跡

(愛媛県松山市)

門司港

(福岡県北九州市)

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