碧梧桐ゆかりの地


『続三千里』

〜下郷亭〜

明治44年(1911年)5月26日、河東碧梧桐は下郷亭を訪れている。


下郷家本家(千代倉屋)


 鳴海の下郷氏の家に着いて、祖先の知足が芭蕉との交友の昔を尋ねた。が、家も昔のものでなく、また芭蕉の遺物、及び知足一家の遺品も殆んどその跡をとどめぬということであった。ただ芭蕉の笈だという一品のみが伝えられておるのを展覧した。笈というよりも、手文庫に類した、梨子地とも見ゆる模様の優にやさしいものであった。この笈については、知足の子蝶羽が父の志を継いで「千鳥掛」の一書を編んだ中に「笈銘」と題して記しておることがある。

其頃翁ある許よりして熱田の桐葉がかたに往しが、また難波の春におもむかんとていかにおもひしや、自負ひし箱物を残し、猶行先の霞とも消なん後のながめにもせよ、といひ置て出行しが、終に其浦風にさそはれ世をみしかき蘆の下浪とは成りぬ。此巻もと翁の句より興りしなれば、せめて其俤に此笈の見まくほしく、桐葉の花も紫のゆかりなれば、かくおもふよしをいひやりてこひけれと、はせをの露のかたみいかにし侍らんや。我もし一葉の秋にもあはゞ、それまた我が名残にもみせんなどいひしが、去年の五月雨に秋をも待たぬ花と散りて、哀添へつゝ送りおこせたり。いかに世は露の玉手筥ふたりの記念となりてある許に所持しにけり。

 こはその笈の来歴を述べたのである。芭蕉の死は元禄七年の十月であるから、この笈を残したのは恐らくその年の五月江戸を発して京、大津、伊賀等に帰った途中、名古屋荷兮庵にしばらく奇遇した時のことであろうと思う。

其形はさながら婦女の玉櫛笥に似ておほいさもさる物なれ、高麗人の工ミと見えしか、ろう塗りこめたるに金泥の絵のこまやかなるもはけうけて、見るかげのあるかなきかにけしきして物ふりたり。左右に蕨手をつけしは負ふにたよりとやせし。むへ独りありきの用とこそおほゆれ。

 高貴の品と見ゆるを携う所以を如何にか解すべきかなど思う。

 なお知足の営んだという細根山の別墅小山園を案内されて、その十四景を見巡った。園中には一寺が建立されておって、寺号を寂照院という。知足の別号に因んだか、またこの寺号を別号としたか。寺側に下郷氏一族の墓地がある。知足の墓表には表面「当山開基寂照庵湛然知足居士」側面「尾張鳴海住平久宗嫡男下里金右衛門尉吉親」とある。寺について位牌を見ると、「宝永元年甲申四月十三日」と没年月が記してあった。去る三十六年五月九日二百回忌を営んだ木標も立っていた。

 下里氏は言うまでもなくこの地の素封家であった。芭蕉との交友は、

      知足亭にて

   杜若我に発句の心(ママ))あり

      知足の弟金右衛門が新宅を賀す

   よき家や雀よろこふ背戸の秋

の句などのあるに見ても明らかであるが、その外、

      寂照庵知足子の許へはせを翁を尋ね来て

幾落葉それほど袖もほころひす
   荷兮

鳴海知足子は芭蕉翁の古き因にて、旅寝の夢の見所と定めて月に雪にやすらはれし其志、今もむなしからざれば、予も亦たづねよりて、むかしに成行事とも物かたり聞えしに、日数とゞまりて、古翁の月忌にさへ当り侍れば云々

千鳥鳴くこゝやむかしの杖やすめ
   路通

芭蕉翁もと見し人を訪ひ、三河国に越え、序おもしろければ伊良古崎見んと、白浪よする渚をつたひ、からうして帰玉ひし旅の哀を聞て

焼飯や伊良古の雪にくつれけん
   知足

などあるを見てその一斑を知るべきである。芭蕉に小山園の事を伝えたもののないのをもって見れば、あるいは知足晩年の経営に成るものか。知足の家では、一家眷属悉く俳縁につながりてその子蝶羽、亀世のみならず、知足の母永参、蝶羽の女しゅん女など何れも十七字を捻っておったことを奇とする。


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