寛永11年(1634年)、2代城主真田河内守信吉「城鐘」鋳造。 天和元年(1681年)11月、5代城主真田信利は江戸両国橋用材の伐出し遅延と失政の名目で城地は没収、改易となった。 天和2年(1682年)、城はすべて破却され、堀も埋められた。 明治20年(1887年)、旧沼田町役場敷地内に鐘楼が建てられた。 昭和58年(1983年)、沼田公園内に復元された。 |
明治26年(1993年)、沼田中町に生まれる。 昭和27年(1952年)3月、句碑建立。 昭和34年(1959年)、67歳で永眠。 |
大正11年(1922年)10月21日、若山牧水は『みなかみ紀行』の旅で沼田の「鳴滝」に泊まった。 |
村上鬼城は本名荘太郎。慶応元年(1865年)、因幡鳥取藩士の長男として江戸藩邸に生まれる。8歳の時、高崎に移住。「ホトトギス」同人となる。昭和13年(1938年)、没。 |
河東碧梧桐さんの来たのも、丁度その頃だった。前橋クラブの主催で、碧梧桐の歓迎会があった。県から丸子学務部長や前橋の関口志行さんらが中心になって一晩歓迎会をしました。そのあと碧梧桐の句について関口さんも俳人だから俳句の問題で碧梧桐の意見を聞いたりした。住吉屋の前の赤城館というところに一晩皆さんが集まった。 それからたしか翌日榛名に登って、こちらへ来て、東入りして、丸沼に登ったと思う。……「三千里」、「続三千里」の中であれだけ旅行して歩いた碧梧桐だが、午後四時に丸沼を発って、八時十五分という短時間に、雪の金精峠を越えたということは記録破りだと書いている。何丈という雪だった。碧梧桐の書いたものをお見せしましょう。
『沼高七十年史』(沼田を語る・生方誠談) |
昭和8年(1933年)9月、河東碧梧桐は如是閑、生方誠らと越後川口の鮎を食べに行った。 |
広瀬の鮎を食べて、実にここのはすばらしいとほめた。 しかしこれだけではしょうがない。碧梧桐がいうところへ行きましょうと、越後川口の駅のすぐ前の旅館に泊まって、それからアブルマの鮎を食べたわけだが、如是閑は「どうも広瀬の鮎にはかなわん」というんで広瀬の簗が勝っちゃったんですよ。
『沼高七十年史』(未掲載の逸話) |
移築前、この屋根看板は2階の格子窓の前側にかかげてあった。 「かどふぢ」の文字は俳人河東碧梧桐の筆、彫刻は生方家当主誠(せい)氏の手によるもので、昭和8年の作である。 |
大正11年(1922年)10月22日、若山牧水が法師温泉で酒を飲んでいると、1升びんを下げた見知らぬ若者が2人入ってきた。 |
其處へ一升壜を提げた、見知らぬ若者がまた二人入つて來た。一人はK−君といふ人で、今日我等の通つて來た鹽原太助の生れたといふ村の人であつた。一人は沼田の人で、阿米利加に五年行つてゐたといふ畫家であつた。畫家を訪ねて沼田へ行つてゐたK−君は、其處の本屋で私が今日この法師へ登つたといふ事を聞き、畫家を誘つて、あとを追つて來たのださうだ。そして懷中から私の最近に著した歌集『くろ土』を取り出してその口繪の肖像と私とを見比べながら、 「矢張り本物に違ひはありませんねヱ。」 と言つて驚くほど大きな聲で笑つた。 |
K−君は生方吉次、生方大吉代議士の弟。もう「一人」の「阿米利加に五年行つてゐたといふ畫家」は、まちがいで「かどふぢ」の生方誠(せい)。誠は太平洋戦争後、国家公安委員制度ができた時に初代の委員になった人。 |
早い年は11月のはじめに降雪がおそってくる山国でした。雪を刷いたように置きわたす初めての雪が、いつ消えることもないまま根雪になり、またそのうえに新雪が重なります。 冬山は落葉樹が葉を落としたあとは、骨をむき出したような削ぎ立った山容を見せますから、雪はそのきびしい形を一層きわだって押し出した風景をつくります。 どこを見ても山に囲まれたきびしい谷あいの町の沼田に、私は住みつかねばならなくなりましたとき、覚悟はしていましたけれど、この閉じられたために一層きびしい山相にむかいながら、いくたび自然のきびしい鞭を嘆いたことでしょう。自然というより、自然以上にし峻烈な人生を思っていたのです。そこには逃避がありませんでしたから。
生方たつゑ『私の歌自注百首』 |
明治37年(1904年)、三重県宇治山田市(現伊勢市)に生まれる。 大正15年(1926年)、日本女子大学卒業後、生方誠と結婚。 平成12年(2000年)、95歳で没す。 |