芭蕉ゆかりの地


〜蓑虫庵〜

伊賀市上野西日南町に三重県史跡・名勝「蓑虫庵」がある。


古郷の誹諧世に五庵と稱するものは所謂、再形庵、初名無名庵、蓑蟲庵、瓢竹庵、東麓庵、西麓庵なり。

『芭蕉翁略伝』(湖中編)

蓑虫庵


 伊賀の芭蕉翁五庵のうち現存する唯一の草庵。土芳が致仕後、元禄元年(1688年)城下町のはずれに結んだ草庵で、些中庵と名付けた。入庵後まもなく来訪した芭蕉より、「蓑虫の音を聞きに来よ草の庵」の自画賛を贈られ、蓑虫が些中に同音相通じることから蓑虫庵とも呼ばれた。

 土芳は享保15年(1730年)1月18日、74歳で没するまでこの庵に隠棲した。その間伊賀衆のかなめとなり、芭蕉の芭蕉の遺業を後世に伝えるため、『三冊子』(しろさうし・あかさうし・わすれ水)や『蕉翁句集』、『蕉翁文集』、『奥の細道』などを筆録した。また生来能筆で緻密な土芳は、入庵後の生活を事細かく『庵日記』、『横日記』、『蓑虫庵集』に書きとどめたので、この句日記を通じて当時の蕉門伊賀連衆の動向が手にとるように理解できる。

安永3年(1774年)、東町の豪商築山桐雨が再興。

文化7年(1810年)、片原町の豪商服部猪来等が再興。

文政7年(1824年)、『蓑虫庵小集』(猪来編)刊。

昭和9年(1934年)4月、高浜虚子は愛染院から蓑虫庵を訪れている。

それから又服部土芳の住宅であつた蓑蟲庵にも行つて見た。芭蕉は遁世してから十度近くも歸省してゐるやうであるが、初めの間は歸つても餘り長逗留はせず直ぐ又この地を去つたやうであるが、晩年になつて其の名聲が天下にきこえるやうになつてからは、郷里に居るのもゆつくりしてゐて、いはゞ悠々自適してをつたやうである。この土芳の蓑蟲庵などにも、自分の庵のごとく心置なく起臥してゐたもののやうに見える。窪田猿雖の東麓庵、西麓庵などにも同じく身を落付けて滞在してゐたやうである。

「奈良街道」

昭和16年(1941年)、水原秋桜子は蓑虫庵を訪れている。

   簔虫庵

   上野市にあり。服部土芳が師のために建
   てたる庵にして、芭蕉の消息等を蔵す

山茱萸にけぶるや雨も黄となんぬ

雨しげくひとつのすみれ花ふるふ

紅梅にふる雨くらし炉もあれど

こゝにしてめでけむ梅にふる氷雨

『古鏡』

 昭和18年(1943年)4月29日、山口誓子は伊賀上野を訪れている。

   簔蟲庵

緋毛氈われ等がために春の暮

『激浪』

「蓑虫庵」に2基の芭蕉句碑があった。

古池塚


古池や蛙飛ひこむ水の音

円窓は正風開眼を表すものだそうだ。

下部に蛙の浮き彫りがある。

句碑は、もと深川の草庵に建てられていたもの。

昭和初期に当時の庵所有者菊本直次郎により移建。

 貞亨3年(1686年)芭蕉43歳の作。季語は「蛙」で春。3月下旬、江戸深川芭蕉庵での作。支考の『葛の松原』によれば、芭蕉はまず「蛙飛こむ水の音」がうかび、上五を得なかったところ其角が「山吹や」と提案したが採らず、「古池や」に定めたという。当時「蛙」に「山吹」は月並な付合用語(連想語)に過ぎず、また蛙は『古今和歌集』の仮名序に「花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば」とあるように、古来、蛙といえば「鳴く蛙」を詠むのが伝統であった。芭蕉はその伝統を打ち破り、池に「飛ぶ蛙」を詠んだところに、斬新で独創的な新境地を開いた。蛙の飛び込む音によって、静寂の世界に動きが与えられ、またもとの静寂にかえるという微妙な境地をとらえた即興句で、閑寂・幽玄な古池の詩情をとらえた。

 句意は、「静かな春の日、水を湛えた古池がひっそりと静まりかえっている。すると、ポチャンと蛙の飛び込む音がした。一瞬あたりの静寂は破れ、またもとの静寂にかえった。

なづな塚


よくみればなづな花さく垣ねかな

昭和14年(1939年)、当時の庵所有者菊本直次郎建立。菊本直次郎書。

 貞享3年(1686年)芭蕉43歳の作。季語「薺の花」で春。江戸深川の芭蕉庵在住の頃に詠まれた句で、『続虚栗』(其角編)等に所収。薺はアブラナ科の二年草で、春の七草のひとつ。別名、ぺんぺん草、三味線草ともよばれ、3、4月頃白い小さな花を咲かせる。「よく見れば」には、花の目立たなさと、こんな所にという驚きが表れている。小さな植物の中に、自然の生命力と大きな季節の動きとを観じた句。当時、芭蕉が『荘子』の「物皆自得」の自然観に深い関心と共感を示しており、自然の様態、なかでも何気なく見える身近な自然現象を深く観察し、さらに自然の摂理を凝視しようとしていた。

 句意は「垣根のほとりに小さな白い花が咲いている。いつもは気にもとめないが、よく見ると薺が可憐な花を咲かせていることだ。さすがに春だなあ。」

芭蕉堂


 昭和5年(1930年)12月、時の庵主菊本璧山が義仲寺の芭蕉堂にならい、建立したもの。

水原秋桜子は芭蕉堂にも詣でた。

 やがて案内されて庵の内にあがった。もう随分古びているけれど、芭蕉がここで伊賀の門人達と風流を語り合っていたことを偲ぶと、すぐには立ち去りがたい気がする。額にして掲げられた芭蕉や丈草の手紙を読み、濡縁に出て庭の雨をしみじみとながめた。

 庵の裏に一宇の堂があり、芭蕉の像を祀ってあるので、そこにも詣でた。堂の前後とも苔があおあおと生い、殊に後庭には椿があまた落ちて彩りを添えていた。「雨くらし堂前の椿堂後の苔」ならばそのまま手帖に書きとめてもよいのだが、「雨くらし堂前の苔堂後の椿」では調子がわるいので困った。

「芭蕉堂」

土芳の句碑があった。

若菜塚


卒度往てわかな摘はや鶴の傍

土芳二百回忌に頒布した土芳自筆の短冊を模刻した句碑だそうだ。

 元禄9年(1696年)土芳40歳の作。季語「若菜」で春。土芳の『蓑虫庵集』に「七草の夜雪芝の祖母、舛(ます)かけ切る。年賀とて例の若菜の会次手(ついで)祝あり。二句」と前書し、「米の字の雑水祝ふわか菜哉」の次に、この句を収める。雪芝は本名、広岡保俊。伊賀上野の酒造家で、屋号を山田屋といった。蓑虫庵主服部土芳の従兄弟。句は雪芝の祖母が88歳の米寿を迎え、蓑虫庵で祝宴を開いたときの土芳の祝句。鶴は当時、蓑虫庵へ時折飛来していたことが同集の句文にもみえる。古来より長寿の動物として尊ばれ、寿命が長くめでたいことの喩えに使われることから、88歳の米寿を迎えた雪芝の祖母のように、自分も長寿にあやかりたいとの気持が読み取れる。

 句意は、「蓑虫庵の庭にも鶴が降り立つ。その鶴のように雪芝の祖母が気高く年を重ね88歳の米寿を迎えた。おめでたいことである。そっと静かに近寄って初春の若菜を摘みたいものである。」

服部土芳墓


土芳の供養塔である。

 昭和4年(1929年)1月18日、土芳二百回忌で西蓮寺に建立。河東碧梧桐書。

 昭和13年(1938年)1月19日、「蓑虫庵」が県史跡に指定されたのを記念して現在地に移される。

 昭和35年(1960年)4月18日、地下2メートルに埋没していた本墓が発掘された。

蓑虫塚


蓑虫の音を聞かはやとこの庵   黄子園

黄子園は間組の社長神部満之助。観魚荘内本紅蓼氏を師として句を作る。

 昭和34年(1959年)、神部満之助氏の寄付により芭蕉翁記念館が建てられた。

昭和47年(1972年)9月10日、79歳で死去。