淺草の觀音堂の鳩にすら心馴寄(なよ)りておもふことあり
『天 彦』 |
はとポッポ はとポッポ |
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ポッポポッポと とんでこい |
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御寺のやねから下りてこい |
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豆をやるから皆たべよ |
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たべてもすぐにかへらずに |
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ポッポポッポと 鳴いて飛べ |
明治10年(1877年)6月30日、東くめは和歌山県東牟婁郡新宮町(現:新宮市)に生まれる。旧姓、由比。 明治32年(1899年)、東京女子高等師範学校教授で同郷の東基吉と結婚。 昭和37年(1962年)11月3日、歌碑建立。朝倉文夫作。 昭和44年(1969年)3月5日、東くめは91歳で没。 |
この詩は日本中の多くの人々に親しまれている日本の代表的な童謡の一つです。東くめ女史が明治34年に観音さまの境内に於て鳩とたわむれている子供らの愛らしい姿をそのまゝ歌によまれたものであります。歌碑を建つるにあたりまして朝倉文夫先生から鳩並に題字を寄せられました事は作曲者滝廉太郎先生と同郷旧知の深いゆかりに依る洵(まこと)にうるわしいご協賛であります。鳩は平和の象徴です。そのためにもこの碑は永久に保存したいものであります。
浅草寺恭順識 |
江戸の昔、今の浅草寺本堂の西北一帯は、俗に「奥山」と呼ばれ、江戸の盛り場として大道芸人や見世物小屋で大いに賑わう著名な場所であった。 奥山の名の由来は記録にないが、おそらく、その位置が本堂の奥にあることから名付けられたと思われる。 明治以後、その賑わいは浅草寺西側の浅草公園六区へと移り、六区は日本一の興行街・映画のメッカとして栄えたが、その前身が奥山だったといわれる。 現在は、この地を「新奥山」として整備し、諸碑が建設されている。この中には、往時の浅草の賑わいを伝える記念碑も建てられている。
金龍山 浅草寺 |
宗因 |
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ながむとて |
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花にもいたし |
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頸の骨 |
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花の雲 芭蕉 |
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鐘は上野か淺草か |
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ゆく 其角 |
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水や何に |
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とゝまる |
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乃里の |
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味 |
岩子は通称。正しくは「岩」という。文政12年(1829年)2月15日、岩代耶麻郡(現在の福島県耶麻郡)熱塩村渡辺家に生れたが、9歳の時、父を失い、母は岩を連れて生家へ帰った。そのため、岩は母方の姓瓜生氏を称した。14歳の時、若松(現福島県会津若松市)の叔母に預けられ、その夫で会津藩侍医を勤める山内春瓏(しゅんろう)の薫陶を受け、堕胎間引の防止に関心を持つに至る。17歳で佐瀬茂助を婿に迎え、若松で呉服屋を営み、1男3女を産んだが、早くに夫を亡くした。明治元年会津戦争で孤児となった幼童の教育に尽力したほか、堕胎等、当時のさまざまな悪習を正し、明治22年貧民孤児救済のため福島救済所を設立するなど、社会事業の推進に努めた。 明治30年4月19日、福島で没す。享年69。生涯を慈善事業に捧げた岩の善行を賞揚し、同34年4月、篤志家によって、浅草寺境内にこの銅像が造立された。台石正面には、下田歌子女史の撰文を刻む。
台東区教育委員会 |
東京の浅草公園に瓜生岩子の銅像がある。慈善家として聞えておる。岩子はこの熱塩の温泉のほとりで生れた。その生れた家は旧体のまま存しておる。小さい白壁の蔵作りで、表は店つきである。店には香水やシャボンのビラが下っておった。その主人というのは、岩子の実子であるそうな。五十左右の年輩で、かつて見た浅草公園の銅像の横幅の広い顔を想起せしめた。 |
ここを獨りわれは歩める瓜生刀自銅像の前に靜かなるベンチあり 淺草のみ寺をこめて人目なる平らなる市街かなと見おろす
『寒雲』 |
彼方に見ゆるは淺草の森、五重の塔高くそれよりも猶高きは 雲の峰凌雲閣に並びけり |
明治23年(1890年)、浅草凌雲閣竣工。12階建てで当時の日本で最も高い建築物であった。大正12年(1923年)、関東大震災で半壊し解体された。 |