碧梧桐ゆかりの地に戻る


『続三千里』

〜杜国の墓碑〜

 明治44年(1911年)5月30日、河東碧梧桐は潮音寺を訪れ、杜国の墓碑を見ている。

杜国の墓碑


 五月三十日。曇、後雨。

 朝の汽船で、亀崎から三河湾を横切って、伊良古半島の福江に上陸した。昼飯後、すぐ町外れの森に立て籠められた潮音寺に詣って、杜国の墓碑を見た。杜国の名は別名万菊丸時代、芭蕉と吉野行を共にした。――芭蕉に笈の小文あり――ことによって、蕉門俳人中でも比較的早世をしたことによって「嵯峨日記」に芭蕉が杜国を夢みて泣きしことを書し、かつ「我に志ふかく伊陽旧里迄したひ来りて夜は床を同じくし、起臥行脚の労を助て、百日が程影のごとく伴ふ。片時も離れず。ある時はたはぶれ或時は悲み我心裏に染て忘るゝ事なければ」と殊に哀惜の念を繰返しておることによって、名古屋の富家に生れながら、事に坐してこの伊良古崎に謫流され、後幾ほどもなく病没したことによって、歿後芭蕉がその跡を尋ねて、前年の「鷹一つ見つけてうれし伊良古崎」の句に因みて「夢よりもうつゝの鷹ぞ頼母しき」をなしたことによって、元禄俳人中の不幸なる一人として知られておる。墓碑表面には「法名釈寂退三度位」と書し、その右に「元禄三庚午二月二十日」その左に「南彦左衛門杜国墓」と彫ってある。碑側碑陰は、文をもって埋められておる。文に曰、

尾州名古屋人、世々富家、不效鄙事、遊于文芸、能書記典、恒産医薬、始来畠村、後移保美、貞享初年芭蕉翁桃青、自東武赴京師之次、訪杜国而到于畠村、吟行於伊良胡、以墨迹存於保美、二三子問其由村老、談及国之徳行、安老懐少接人愛敬、莫不里人挙哀傷、因病間遺言、築暮於潮音原、二三子聞之追悼、浴其名不朽、建石碑於墓上、故以誌其大略云爾、

   延享元年甲子秋九月

と。もって杜国が始めこの地畠村に住し、後保美村に移ったことを知るのである。「続俳家奇人談」には餝屋平兵衛として杜国の商業及俗名を伝えておるが、この碑文によれば、職業は売薬商で、姓は南名は彦左衛門であることが判明する。潮音寺は地名潮音原に建てられたため、寺名を負うに至ったのであろう。延享元年は元禄三年から計算すれば、杜国の五十年忌に相当する筈である。


碧梧桐ゆかりの地に戻る