帰りくる道に、紀三井寺の住持、清章旧友なればまふけことなり。 |
それは近江これや此月紀三井寺 | 宗因 |
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うらの秋うち出て見れば札所哉 | 重賢 |
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月見ずば本願にもれ候べし | 清章 |
「肥後道記」 |
その昔、紀の国屋文左衛門は、若き頃から孝心が篤く、母を背負いてこの坂を登り、観音様へお詣りしました。途中ぞうりの鼻緒が切れ、困っているところに玉津島神社の宮司の娘のかよが通りかかり、鼻緒をすげ替えたが縁となって二人は結ばれ、宮司の出資金によるみかん船で、大儲けしたという、紀の国屋文左衛門ゆかりの、この坂は結縁坂です。 商売繁盛も良縁成就も、その他何ごとも先づは信心からと申せましょう。 観音様に心から願いを掛けましょう。 |
稲津祇空は紀伊国屋文左衛門の手代をしていた頃、蕉門の榎本其角から俳句を学んだ。 |
紀三井寺なる翁塚にまうでて 高吟に二三をそふ 見上ぐれば桜しもうて紀三井寺
『菊苗集』(俳諧堂耒耜編) |
『芭蕉翁句解参考』(月院社何丸)、『俳諧苔花集』(三山人巴明編)にも収録されているが、存疑句。 |
それは「行春……」の句碑は上の句で、下の句は紀三井寺の境内に立っているという船頭の言葉に依って探ねて、私はその碑を見つけ出したのである。彼の云う通り 見あぐればさくらしまふて紀三井寺 芭蕉翁 とある。この句が何の書に依ったものか私は知らない。従って果して芭蕉の句であるかどうか、文献的には今、断言できない。
『随筆芭蕉』(和歌の浦) |
見あぐればさくらしもうて紀三井寺 | はせを |
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時雨るゝやしぐれぬ沖の帆は白し | 塊亭老人 |
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いそがしや沖のしぐれのまほかた帆 | 去来 |
紀伊國名所図會(巻五) |
当山は救世観音宗総本山紀三井山金剛宝寺護国院と号し、今から1200年前の昔、唐僧の為光上人によって開創された霊刹であります。 |
俳聖松尾芭蕉(1644〜94)は貞亨5年(1688年)春紀伊路を訪れ、紀三井寺に参詣「見上ぐれば桜しもうて紀三井寺」(菊苗集)の句を詠んでいます。そして和歌浦で「行春を和歌の浦にて追いつきたり」(笈の小文)、また(紀伊国名所図会)には「宗祇にもめぐり逢ひけり遅ざくら」の句と茶店に師宗祇の故事を尋ねる芭蕉の挿絵も掲載され、境内に文化年間(200年前)建立の句碑も現存しています。 芭蕉没後300年紀三井寺参詣を記念「芭蕉偲ぶ会」を結成、追悼事業として早咲の桜名所(全国桜百選)を全国に紹介された翁の功績を顕彰銅像建立を発願、各界俳句愛好家地元ふるさと運動、そして紀三井寺様の敷地提供、日下部章四郎氏(酒田市)の彫像協力により、ここ芭蕉行脚ゆかりの宗祇坂杢太庵跡に建立できました。 紀三井寺は『奥の細道』最北端みちのく象潟蚶満寺に対し「芭蕉翁足跡最南端の地」と言われています。 |
宗祇坂 當山の裏坂にあり。紀三井山下杢太にやすらへば、宗祇の古事ねもごろにをしふ |
紀三井寺へ参りつゝ、げに水月道場なる事に、 御堂かげうくや五月の入江濁るとも
『南紀紀行』 |
明治40年(1907年)、若山牧水は郷里の坪谷から上京の途中で紀三井寺を訪れている。 |
紀三井寺海見はるかす山の上の樹の間に黙す秋の鐘かな 一の札所第二の札所紀の国の番の御寺をいざ巡りてむ
『海の声』 |
昭和6年(1931年)4月6日、高浜虚子は徳島から海を渡り、紀三井寺を訪れている。 |
それから風波の荒い海を渡つて紀州の和歌の浦に着いた。 和歌の浦に着いた時分に風波は稍おさまつた。紀三井寺の櫻は色があせてゐながらも、尚花の雲を棚引かせてゐた。
「花の旅」 |
昭和22年(1947年)3月30日、星野立子は紀三井寺に吟行。 |
三月三十日。和歌浦口下車、海苔干を見ながら紀三井 寺吟行。 初花や薄日さしつゝ雨ほつと 太幹にましろに一花初桜 蕾率て花ほつほつと初桜 |
昭和45年(1970年)7月9日、高浜年尾は西国観音巡りで紀三井寺へ。 |
七月九日 西国観音巡り 紀三井寺本坊 海苔舟の休めり汐入川の夏 大小の蝶緑蔭をかけめぐる 緑蔭の涼しけれども蚊に刺され 蟻落ちて来る緑蔭でありにけり |