俳 人
田中五竹坊

本巣郡北方村の人。仙石廬元坊の門人。美濃派(獅子門道統)四世。別号東伯、帰童仙、五筑坊、吾竹坊。
延享4年(1747年)5月10日、廬元坊没。道統を継承。
寛延2年(1749年)9月、金津の俳人坂野我六は五竹坊越後行脚の折に「雨夜塚」を建立。

芭蕉翁之塔
碑の左側面に五竹坊と我六の句が刻まれている。
その道も潤ふ秋や雨夜塚
| 五竹坊
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惠みは広き野に草の色
| 我 六
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寛延年間(1748〜1750)に吟里・壷中は「せみ塚」を建立。

芭蕉翁
静さや岩にしみ入る蝉の聲
五竹坊は句を寄せている。
壷中・吟里の両風子、故翁の短冊を納て蝉塚をいとなめることは、俳祖の光徳の固きよりと、尚更尊く覚へて
其声や築は今も蝉の塚
| 五竹坊
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宝暦元年(1751年)8月、信杖坊許虹は郷里を出立、美濃北方に五竹坊を訪ねる。12月、豊前小倉に到着。
宝暦8年(1758年)10月12日、吾竹坊門人の富田松州は芭蕉の句碑を建立。

芭蕉翁
青柳の泥にしたゝる汐干かな
宝暦8年(1758年)、道統を安田以哉坊に譲るが、後改めて河村再和坊に継がせた。
以後美濃派は「以哉派」と「再和派」に分かれて道統を継承する。
明和2年(1765年)、以哉坊は奥羽行脚。『奥羽行』(以哉坊編)。五竹坊序。
明和6年(1769年)10月12日、帰童仙門人の恵方庵富無三は「落葉塚」を建立。
桑府の無三雅子、落葉川のほとりに故翁の塚をいとなみ、正風の冥慮を仰ぎ申さるゝ、その誠の等閑ならぬに感ありてかく申贈る
明和7年(1770年)、青梔は石手寺の境内に「花入塚」を建立。五筑坊は句を贈っている。
安永2年(1773年)4月、鳰亭連中は長良の法久寺に芭蕉の句碑を建立。

夏来てもたゝひとつ葉の一葉哉
安永4年(1775年)3月、楊柳舎以文の妻女世理は五竹坊を訪ねた。
北方なる五竹老師のもとを尋ねて
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| 世理
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笠ぬいて先道とわん花吹雪
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春もたまたまにひらく枝折戸
| 五竹房
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安永5年(1776年)、無三は尾張・美濃紀行。帰童仙を訪ねる。
師弟の因みの浅からさるも主用のいと
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まなきに隔てられしか此冬ははしめて
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老師のもとへ窺ひ直指の教戒を仰ぎ侍
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るとて
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座布団へ進むや鞭の届く迄
| 無三
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虚をしらはあの雪も暖
| 帰童仙
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安永9年(1780年)7月26日、81歳で没。
北方町北方に「田中五竹坊居宅跡」がある。

住みあいた世とは嘘なり月よ花
| 仙石庵廬元坊
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名月やことしの影はことしとて
| 田中五竹坊
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しづけさや芭蕉にかかる雨の音
| 岡田冬恕坊
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第四世 田中五竹坊

あふむいて分別はなしけふの月
文化4年(1807年)10月12日、第七世雨岡庵古梁坊は北方町の西運寺に「帰童仙」の碑を建立。

碑陰に五竹坊の句が刻まれている
宵の雨の道も乾くや桃の花
山県市の洞泉寺に五竹坊の句碑がある。

山さとや杖に手をくむ秋のくれ
関ヶ原町の美濃不破関跡に帰童仙の句碑がある。

誠にと立あかりけり不破の月
福岡県吉富町の天仲寺公園にある美濃派の句碑に「仰向いて分別はなしけふの月」の句が刻まれている。
五竹の句
痩なから晴うてハなし後の月
芍薬に蝶も廿日のねふり癖
名月に鳴りや静めて琵琶の海
蘭の香や岩に添てもかたからす
知る人のあちらむき行門すゞみ
鹿の声かすかに二日月夜かな
秋たつや茶粥に味の覚えられ
世の中はありのまゝこそ涼しけれ
明日の事は明日にして咲く木槿哉
梅咲て似合ぬ垣ハなかりけり
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