和歌の浦は、和歌川河口付近に展開する干潟・砂嘴、島、丘陵地など自然景観のなかに玉津島神社、塩竃神社、天満宮、東照宮など神社仏閣が点在する海の名所で、万葉集に詠われた良好な風致景観を今日に伝えている。 神亀元年(724年)10月、聖武天皇は和歌の浦に行幸し、その景観に深く感動し、「弱浜(わかはま)」の名を改めて「明光浦(あかのうら)」とし、春・秋に官人を派遣し、玉津島の神、明光浦の霊を祀った。 その時同行した山部赤人が詠んだ「若の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺をさして鶴鳴き渡る」の名歌に端を発して、和歌の浦は多くの貴族にとって憧れの地となり、和歌の歌枕として広く知られるようになった。 |
神龜元年甲子冬十月五日幸于紀伊國時 山部宿祢赤人作謌一首并短謌 安見知之 和期大王之 常宮等 仕奉流 左日鹿野由 背匕尓所見 奧嶋 清波瀲尓 風吹者 白浪左和伎 潮干者 玉築苅管 神代從 然曾尊吉 玉津嶋夜麻 |
反謌二首 奧嶋 荒磯之玉藻 潮干滿 伊隱去者 所念武香聞 若浦尓 塩滿來者 滷乎無美 葦邊乎指天 多頭鳴渡 |
神亀元年甲子冬十月五日、紀伊国に幸(いでま)しし時に、 山部宿禰赤人の作る歌一首 并に短歌 やすみしし わご大王の 常宮と 仕へまつれる 雑賀野ゆ 背向(そがひ)に見ゆる 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白浪騒き 潮干れば 玉藻刈りつつ 神代より 然ぞ貴き 玉津島山
(巻6−917)
反歌二首 沖つ島 荒磯の玉藻 潮干満ち い隠りゆかば 思ほえむかも
(巻6−918)
わかの浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺をさして 鶴鳴き渡る
(巻6−919) |
犬養孝は全国の万葉故地に所縁の万葉歌を揮毫し、131基の万葉歌碑を建立した。玉津島神社の万葉歌碑は98・99番目のものである。 玉津島神社の神は「和歌三神」(現在の住吉明神・柿本神社・玉津島神社)の1つとして朝野に崇められてきた。 |
元禄7年(1694年)10月、其角は玉津島神社で句を詠んでいる。 |
玉津島にまい(ゐ)りて 御留守居に申置なりわかのうら |
明和8年(1771年)、加舎白雄は玉津島神社で句を詠んでいる。 |
玉津島の社頭 神の渚玉藻の花の咲にけり |
昭和6年(1931年)8月7日、与謝野晶子は和歌の浦を訪れている。 |
玉ならぬかはらまゐれと勸進す衣通姫のみやしろの禰宜 玉津島みやしろ小さし伽羅山をおん薫物と見なしがたかり
「沙中金簪」 |