山形領立石寺は聞しにまさる清閑の地にして西谷ひかし谷その外山の仏閣ことことく順礼して佳景寂寞たる岩窟に入てしはらくこゝろをすます
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あら淋し浮世の音もわすれ草
| 柳几
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宝暦5年(1755年)4月30日、南嶺庵梅至は山寺を訪れている。
晦日羽の山寺に詣す往昔慈覚大師の草創中堂は薬師奥の院多宝如来立せ給ふ抑梺より天辺に至るまて石を重て山とせり
明和元年(1764年)10月5日、内山逸峰は山寺に泊まっている。
けふ、出羽国山の寺といふにまうでゝ、
はるばるとたづね出はの奥山の寺こそ冬はあはれまされり
此御寺は慈覚大師、比枝(叡)の山をうつして開き給へるとかや。宝珠山立石寺といふ山の姿、岩ほのけしき、言の葉にもつきたり。所々見廻りて時を移し日すでに暮たり、此の山の境内にとまる。
明和6年(1769年)5月、蝶羅は立石寺を訪れ句を詠んでいる。
最上立石寺
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山寺や雲を見下す岩蓮花
| 蝶羅
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天明2年(1782年)、田上菊舎は立石寺を訪ねた。
其より立石寺といへる山刹を尋ぬ。此
寺は蕉翁の、「岩にしみ入蝉の声」の高吟
世に聞えし所也。甚清閑寂寞の地にて、巌かさ
なり、苔ふり、所謂、空翠庭陰に落る情有。
踏しめて登るも清し霜の花
寛政3年(1791年)5月22日、鶴田卓池は天童を経て、山寺にいたる。
明治39年(1906年)、斎藤茂吉は立石寺の「修行の岩場」で歌を詠んでいる。
みちのくの佛の山のこごしこごし岩秀(いはほ)に立ちて汗ふきにけり
『赤光』
明治39年(1906年)10月30日、河東碧梧桐は山寺を訪れた。
山形の名勝山寺は、宝珠山立石寺というて慈覚大師の開基である。市を距(へだた)る東北三里の山中、二日峠の麓にある。
昭和2年(1927年)10月、小杉未醒は「奥の細道」を歩いて、立石寺を訪れている。
しづけさや岩にしみ入る蝉の聲、此句は思ふに杜甫の、伐木丁々山更幽の七字より數段優れたものであらう、此句より立石寺を想望し來つて、さてその山寺(此邊では專ら立石寺を山寺と云ふ)の山門を入れば、にぎやかな見物衆物賣りの店も並び、細道導者には、大分に當ての外れた景氣、
昭和5年(1930年)7月、斎藤茂吉は立石寺を訪れている。
立石寺の蝉を聞かむと來しかども雨降り蝉は鳴くこともなし
『たかはら』
昭和28年(1953年)6月22日、水原秋桜子は立石寺を訪れている。
昭和40年(1965年)、山口誓子はは立石寺を訪れている。
蔵王温泉へ。
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