祭芭蕉翁塚

『花入塚』(青梔編)


 明和7年(1770年)、芭蕉没後77年に青梔(せいし)が父麦邑の遺志を継いで、石手寺の境内に懐紙を埋め「花入塚」を建てた記念集。

祭芭蕉翁塚


うちよりて花入探れんめ椿

明和7年(1770年)10月12日、竹鸞台風徐・雪渕楼野菱序。

安永5年(1776年)1月、蓬生庵青梔自跋。

ことし熊野山の境内に芭蕉翁の碑を建る事は、いつの年にかありけん、鳳枝老人の発起にして、門下の誰かれも成就の日を待侘しに、撰集の催し諸国通志の往返におくれ、はからすも半途にして老人世を辞し申されける。

   哥仙行

うちよりて花入探れんめ椿
   翁

降こむまゝの初雪の里
   彫棠

目にたゝぬつまり肴を引替て
   晋子

羽織のよさに行を繕ふ
   黄山

夕月の道ふさけなり鉋屑
   桃隣

出代過て秋そ世話しき
   銀杏



   奠 章

予州松山の人々、正風の俳祖芭蕉翁の石碑を造立して、十月十二日、その供養もとゝなひけるよし。誠に道を尊とめる姿の著きとも云はんか。是より百有余里の海山を隔なから、神霊いつこも同しからんには、遠く報恩の俚章を贈りさゝけて、不朽の冥慮を仰き奉る事しかり
時雨にも松は晴あり翁塚

花入塚の事おもひ立て、その土地を見に罷りけるはしめに
古人 鳳枝井麦邑
爰にうつす甲斐あれ水に花の影



   石塔供養

咲かえる花をそれとも塚供養
   野菱

小春の空の虚実明らか
   青梔

こちらから詣ふへき筈の人見えて
   風徐

砥の目も久しふりの庖丁
   芦牛



   諸国名録

明日の事は明日にして咲く木槿哉
   美濃北方
 帰童仙

春中の仕事に延る柳哉
   伊勢桑名
 無三

花さかり雨も大事に降りにけり
   仝山田
 麦浪

及はれぬ手をあちらから藤の花
   出羽
 風伍

菊の日や誰か忘れて垣に杖
   越後堀之内
 徐々

さひしさもおかしさも尾に鶉かな
   仝新発田
 許虹

夕くれの見世覗きして団扇哉
 既白

思ひきつて細脛ぬかせ御祓川
 松後

朝顔や今朝焚くものに這かゝり
   常陸水戸
 三日坊



松府の熊野山石手寺に祖翁の碑を詣拝するに、この地やもとより翠竹こまやかに松柏茂りておのつから清閑の霊場といふへし。日毎の洒掃なを今さらに崇敬の式をたゝしうして 専そのこゝらさしを寄せらるゝ社中の信の信なる事をも感せられて、即時に此一章を献し奉るのみ
叺哉坊
おこたらぬ手向や夏の花入塚



貞享元禄のむかし、予か祖父擲瓢老人は武江に役すなる年あり。公務の余暇には常に蕉門の俳諧に信ありて、道を晋子に学へり。青地氏彫棠のぬしは囲碁の親友にして、しかも俳諧の道を其人にも学ひて、其世に芭蕉庵の沙汰もたまさかならす。ある日老人彫棠の亭を訪うふにあるしの云、この比翁、其角・桃隣等の三四者をいさなひ、我亭に来り給ひ、「うちよりて花入探れ梅椿」と云ふ句を即興し給ふ。人々脇の句をうかかふに、冬季しかるへしとなり。猶其ゆへを窺うに、翁の曰、すべて探梅を冬季に用る事詩家の格なりと。その教諭を得て、「初雪」の脇し侍りて、一巻なりぬ。と語る。老人、その席の懐紙を乞て、是を閲するに、桃隣子の筆跡にして、その世にさへも珍しかりけれは、伝へて家宝とす。擲瓢没後、その子鳳枝井麦邑に是を伝ふるに、蕉門の繁栄、年に月に昌に、翁の徳光、日に影に誠に、一道の開祖にして、庫中に秘し置のおそれあれは、碑を築き是をおさめ、其霊を祭りて、永く諸風土の倶偶にもなさしめ、此地にこの塚ある事を諸国の同志にしらしめんと、花入塚の一集をおもひ立て、よりより其催しありしか、世ははかなくも半端にして、宝暦十三の春、鳥部野ゝ霞とともに立去りぬ。我またこの道に疎しと云へとも、既に蕉門に三世のこゝろさしありて、道を尊む事四十年。士官懸命の暇に忘れされと、至てうとく、時々の交会もこゝろに任せす、おのつから父か意を続くへきの器にあらさるより、むなしく絶なん事を歎き、竹鸞主・雪渕主ならひに鳳枝井の古連中こゝろさしを運ひて、去りし庚寅の冬、熊野山の境内に一基を築き、年来の志願はとけ侍りぬ。かつ編集の模様も大に是を省き、二十哥仙を表に略し、五筑庵師の一章を一巻の導師として、此の梓行の沙汰に及ひぬ。是たゝ造化に養るゝの幸にして、元より一字の才なけれは、窓下に螢の影暗く、雪の光乏しけれと、春の花の清く、秋の月の明らかなる自然の余潤に恵るゝにそ、ことし麦邑居士か正当忌日、牌前の塵をはらひ、香を枯し花をおりて、其事の就れるはしめ終りを禿なる筆に 蓬生庵青梔自誌

京寺町二条下ル所 橘屋治兵衛板

祭芭蕉翁塚