西山宗因

「筑紫太宰府記」


 寛文3年(1664年)、宗因は豊前の小倉城主小笠原忠真の許に滞在、8月10日頃太宰府安楽寺に詣でた。

太宰府天満宮


 寛文三年の夏筑紫に下りて、豊前の國の城下に日比有しに、年比音にのみ聞わたり、はるかにおもひやりし心ざしにもよほされて、太宰府安樂寺に詣で侍し時しも、八月十日ばかりなれば大かたの空のけしき、野山の色もおかしきほどなるに道すがら、箱崎はかたの津、生の松原一見し、刈萱の關をこえて太宰府にいたりぬ。所のさま聞しにまさりて神さび心すめる靈地也。かたへは山につきてふかう入所也けり。並木の櫻、松の林、苺滑かなり。堂塔いらかをならべ宮人軒をつらねたり。樓門高くそびえて朱の玉垣かうがうしき御前に拜したてまつれば、さながら配所のむかしも見る心地してまのあたり御影いますかとおぼえて、泪もたえがたし。みじかき心うちにうごき幣もとりあへず、

   仰見ん空かくれせし松の月

   いにしへのよろづは夢の俤も

      猶神垣に有明の月

 宮人興行などありて五六日留りて十五夜の月、御池のほとりにて、

   神の石もくはゝる月の處哉

 そのわたりこのもかのも順見するに、都府樓にはわづかに萱の軒もる月をながめて心をいたましめ、觀音寺にはただ松吹風を聞てむかしをしたふ聲のみ有。かまど山のけぶり長くたな引、染川の流たえずして七百余歳の春秋はきたれども、和光の影いや照まして天下の崇敬あらたなり。殊更當國の太守代々信ふかくいまして、おほくの荘園をよせられ、朝暮の禮奠いつかしく、社家の勤行おこたる事なし。予年月の信心いやまして、百韻奉納の心は有ながら、家路を催す折からしづごころなくて、

   神慮かく社はみめ空の月

 拙きこと葉ながら、此道まもり玉ふ冥慮にはすて給はじものをや、御實前に捧たてまつるもの也。

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