2012年山 口

「みもすそ川公園」〜壇之浦古戦場跡〜
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下関市みもすそ川町の関門海峡に面して「みもすそ川公園」がある。


壇之浦古戦場跡である。

日本史の節目を刻む関門海峡

 西へ東へと1日に4回、その流れの向きをかえる関門海峡。せまい所では、両岸の幅は700メートルあまりで、潮流の速度は、最高で約10ノット(時速18キロ)にもなります、また、瀬戸内海の入口に位置する地理条件から、昔も今も交通の要衝で、日本の歴史を刻む舞台となっています。

 寿永4年(1185年)3月24日、平知盛を大将にした平家と、源義経ひきいる源氏がこの壇之浦を舞台に合戦をしました。当初は平家が優勢でしたが、潮の流れが西向きに変わり始めると源氏が勢いを盛り返し、平家は追い詰められました。最期を覚悟した平知盛が、その旨を一門に伝えると、二位の尼は当時数え8歳の安徳天皇を抱いて入水。知盛も後を追って海峡に身を投じ、平家一門は滅亡。日本の政治は貴族から幕府による武家政治へと移行していきました。なお、この戦いにおいて義経は平教経の攻撃を船から船へと飛び移ってかわし、いわゆる「八艘飛び」を見せたといわれています。

下関市

安徳天皇は赤間神宮に祭られている。

3月24日 丁未

長門の国赤間関壇浦の海上に於いて、源平相逢う。各々三町を隔て、舟船を漕ぎ向かう。平家五百余艘を三手に分け、山峨の兵籐次秀遠並びに松浦党等を以て大将軍と為し、源氏の将帥に挑戦す。午の刻に及び平氏終に敗傾す。二品禅尼宝劔を持ち、按察の局は先帝(春秋八歳)を抱き奉り、共に以て海底に没す。建禮門院(藤重の御衣)入水し御うの処、渡部党源五馬の允、熊手を以てこれを取り奉る。按察大納言の局同じく存命す。但し先帝終に浮かばしめ御わず。



平知盛の像


碇を体に巻きつけて海に飛び込む場面のようだ。

 元禄11年(1698年)9月7日、各務支考は西国旅行の帰路、壇之浦を訪れている。

此地は平家の古戦場にして、歌人詩僧もむなしう過べからず。さればやよひの花ちりちりに、金帯玉冠もいたづらに、千尋の底にしづめられしむかしのありさま、今なほ見るばかり、あはれふかし。

   鳥邊野はのがれずやこの浦の秋


源義経の像


「八艘飛び」であろう。

 明和8年(1771年)5月、蝶夢は壇之浦で「安徳帝御入水」の事を書いている。

 それに続て田の浦より青柳が浦迄は、元暦のむかし、安徳帝をはじめ奉り、平家の一門の公卿・殿上人・局・内侍以下まで沈みうせし浦は(わ)なり。はるかに世へだゝりぬる事ながら、その時の心うき事、沈み給ひし有様まで見る心地せられて、かずかずとりあつめたる哀さもおもひ出めり。


 安永8年(1779年)、横田柳几は壇の浦で句を詠んでいる。

   壇の浦にて

短夜や芦間の夢の平家蟹


 文化2年(1805年)10月18日、大田南畝は長崎から江戸に向かう途中で壇之浦を通る。

 海邊にいでゝ左の岨道をゆく。右に人家あり。是壇の浦なり。入口に小川あり。御裳濯川といふ安徳天皇の御歌とて「今そしるみもすそ川の流には波の底にもみやこありとは」といへる歌によるといふもおかし海ばたに小き岩あり。烏帽子岩といふ。みな後の人の名づけしなるへけれど、とにもかくにも其代のさまは思ひやられてあはれなり。


「安徳帝御入水之処」の碑


二位の尼辞世

今ぞ知るみもすそ川の御ながれ波の下にもみやこありとは

 明治43年(1910年)2月22日、河東碧梧桐は壇之浦を歩いた。

 檀(ママ)の浦を歩いて今は壇の浦町という名になっておると思いつつ行くと、壇の浦軒と筆太に記した床屋の看板が予の目を惹いた。

 夜再び鎮海楼に飲んだ。


「紙芝居、いかがですかあ。無料でえす。」と声を掛けられた。

紙芝居「壇ノ浦合戦絵巻」である。

多少興味もあったが、旅の途中で時間が取れなかった。

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