2022年福 岡

甲宗八幡宮〜碑巡り〜
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北九州市門司区旧門司に甲宗八幡宮(HP)がある。


甲宗八幡神社
平知盛の墓

源平の戦いの後、源範頼・義経兄弟が戦いで荒れた社殿を再建した。また、拝殿裏には平知盛の墓と伝えられる石塔があり、昭和28年の大水害の時に筆立山から流れて来たと伝えられる。
北九州市

石段の左手に本居宣長の歌碑があった。


海の外おきつ
  千しまも
 天皇の御稜威
  かしこみ
   いつき
    まつろふ

大正13年(1924年)、建立。

拝 殿


 昭和20年(1945年)6月、空襲で焼失。現在の社殿は昭和33年(1958年)に現在の門司区長谷にあった武徳殿(武道場)を移築したもの。

社殿の右手に平知盛の墓があった。


左が墓、右は供養塔。

伝 平知盛の墓

この石塔は平知盛(1152〜1185)の墓として甲宗八幡神社に伝わるものです。

知盛は平清盛の四男で、勇猛果敢な武将として能「船弁慶」などの芸能にも取り上げられております。父清盛亡き後、平家の総帥となった兄宗盛を補佐し、平家一門の統率的存在となり、寿永3年(1184年)、所領の彦島に本拠地を置き、古城山山頂に門司城を築いて戦に備え、翌年の壇之浦の戦い(1185年3月24日)では田野浦に兵を集め、万珠・千珠島付近に布陣する源氏を攻めますが、義経戦略の前に武運なく敗れ、安徳天皇をはじめ平家一門の最後を見届けると「見るべき程の事は見つ(見るべきものはすべて見た)」と潔く入水してその一生を終えました。

墓は甲宗八幡神社が鎮座する筆立山山中にありましたが、昭和28年の門司の大水害により流れ、拝殿裏に傾いたままの状態にありましたので、ここに再祀しております。

奥に大神貴文翁像があった。


明治17年(1884年)、当神社累代の社家である大神家に生まれる。

明治37年(1904年)、20歳で当社第四十三代宮司となる。

昭和39年(1964年)、80歳で死去。

川江直種翁の歌碑


豊国の門司の関やの岩清水くみて昔を知るひともがな

 明治12年(1879年)、現在北九州市小倉北区に鎮座する篠崎八幡神社の宮司・川江直種翁が当社例大祭の折に詠んだ歌だそうだ。

昭和46年(1971年)8月、建立。

 大正10年(1921年)11月13日、甲宗八幡宮で「天の川」門司支社句会。

 昭和16年(1941年)6月1日、高浜虚子は満鮮旅行の途次、和布刈神社を訪れ甲宗八幡宮にて披講。

小倉歩兵第百十四聯隊第七中隊
慰霊碑


昭和12年7月志那事変勃発に伴ひ9月10日動員下令第十八師団歩兵第百十四連隊第七中隊小倉の地に編成さる。同年11月2日杭州湾の敵前上陸より南京攻略杭州の守備に任ず。昭和13年10月12日、南支バイアス湾に敵前上陸し広東攻略戰を始めとして広東広西両省の作戰警備に当る。昭和17年2月9日上陸の第一戦としてシンガポール島攻撃に奮戰し兵力三分の一を余すのみとなる。昭和17年4月ビルマ方面へ転戦ラングレー攻略より更に北辺ミイトキーナへ進出敵の總反撃に全滅を賭して孤壘を守る。

茲に戰病没者及び内地帰還後の帰幽者の御霊を祀る。苦樂を共にせる第七中隊戰友の御霊安かれ。征途に船出せし門司港頭甲宗八幡宮の丘に戰友有志建之。

碑面に戰友火野葦平君遺筆の詩を刻む。

戦友火野葦平は慰霊碑に碑文を送り、英霊の安らかなる事を願う。

杭州西湖の思い出に
 西湖の水の青くして
 紅木蓮の花咲けば
 たづぬる春の身近く
 兵隊なればたのしかる

昭和43年(1968年)、建立。

火野葦平詩碑


足は地に
心には歌と翼を
ペンには色と肉を

昭和57年(1982年)、早稲田大学校友会により建立。

火野葦平は明治39年12月3日北九州市若松に生まれた。

早稲田大学に学び、昭和13年糞尿譚で芥川賞、続く中国戦線の作、麦と兵隊、土と兵隊、花と兵隊で朝日文化賞ならびに福岡日々新聞文化賞を獲得、一躍日本の代表的作家となった。以後その筆力は衰えを知らず、絶筆革命前後は日本芸術院賞に輝き、また九州文学同人として終生郷土文化の育成向上に努めた。

昭和35年1月24日歿。墓は若松の安養寺にあるが、彼の文学は高度の庶民性とヒューマニズムに貫かれ、河童を愛したロマン精神に満ちていて、普く愛されたその人格と共に不滅の光彩を放っている。

門司は大作花と竜ゆかりの地であり、彼を戦場へと送った港町である。ここに彼が自ら選んだ自筆の碑文を右に刻み、」その二十三回忌と母校創立百年の年を記念してこれを建立する。

早稲田大学校友会福岡県支部

鹿児島本線門司港


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