高浜虚子の旅

「關門トンネルを通る」

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 昭和33年(1958年)4月27日、高浜虚子は板付空港から自動車で飯塚に行って、1泊。翌日、甘木、秋月両所の句碑を見て原鶴温泉に1泊。翌日、門司へ。

 飯塚まで一時間強、自動車。斐川東道。八木山峠越。澤山の遍路に出合ふ。これを新四國といふさうである。菅笠を被り笈摺を著、遍路杖を突いた老若の男女が際限もなく現はれる。

山裾を來る遍路山下りて來る遍路
   立子

古さとに似し山河かな遍路くる
   同

 わが郷里、伊豫松山在、風早西の下は私の當歳から八歳まで郷居した土地で、春先になると遍路が織るが如く家の前を通つた。それは本場の四國遍路であつたが、これは九州の新四國の遍路である。最前からこの福岡の山川人家のたゝずまひが郷里に似てゐると思つてゐた處に、この遍路の群の現はれて來たことはなつかしかつた。飯塚著。

 曩祖八幡宮參詣。斐川、年尾の句碑を通りすがりに見、北代邸に入る。

なつかしき遍路のことをインタビウ
   虚子

      甘木、秋月

 無元邸休憩。甘木、秋月兩所の句碑を見る。甘木の句碑は無元君の負擔重大。秋月は亡き父が青年の頃、武者修業に來た處。父はどの山路をとつて秋月の城下に來たか、とその當時を憶ひ見る。甘木市長、嘉太櫨、無元東道。

あの尾根を斯く來られしか春の山
   立子

 病絲女、その母(毎年白玉粉を送つてくれる)その門前に待受けてくれたのに車を停め、挨拶。嘉太櫨邸休憩、庭前の句碑を見る。

 その夜、原鶴温泉、小野屋泊り。女將禮讃の舊作。

螢とぶ筑後河畔に佳人あり
   虚子

      岡崎旅館

 一人の便りにしてをつた娘を嫁がせたので、老夫婦がさびしく清潔に經榮してゐる旅館。物語に出て來さうな老夫婦。

老いて尚ほ雛の夫婦と申すべき
   虚子

 年尾、杞陽等來門。同宿。

      和布刈神社

 お宮に尚ほ古い感じは殘つてをるが、その他は明るくなつてしまつた。新らしく出來た海底トンネル(人道)の入口のあたりは、人出が大變である。新らしく建つた集會場で俳句會。九州はもとより、四國、山陽等から數百人參集。

 故山本元帥の副官であつた今の門司第七管區海上保安本部部長渡邊安次氏來訪。元帥最期の模様をつぶさに聞く。

      下   關

 下關、赤間神宮。宮司の先導で參拜。七盛の塚。嘗つてあつた椎の大木は、隣の春帆樓が戰災を受けた際、類燒。

七盛の墓包み降る椎の露
   虚子

といふ舊作も昔となつた。

 從來娼妓によつて行はれることによつて有名であつた先帝祭は今年はカフエーの女で行はれた。衣裳、鬘等從前通り、外八文字も上手に踏んだとの事。

(朝日新聞 三三・五・一三)

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