高浜虚子の句

『虚子百句』(稲畑汀子)

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 平成10年(1998年)、稲畑汀子は「俳句研究」(1月号)から「虚子百句」を連載。

春風や闘志いだきて丘に立つ

 この句は大正二年二月十一日、三田俳句会において作られた。虚子三十九歳の時である。

 この句を理解するためには、どうしても当時の俳句界の潮流に触れなければならない。

 明治四十二年から四十四年にかけての西日本を行脚する「続三千里」の旅を終え意気軒昂な碧梧桐は当時の自然主義文学思潮を取り入れ、子規の写生を離れ現実描写に徹することで俳句の新天地を切り開こうとした。それは俳句を忘れたかのように小説に没頭する虚子をみて、自らが俳句の先駆者でなければならぬという使命感に駆り立てられたからであろう。虚子は最初俳句のことは碧梧桐に任せておけばよいと考えていた。碧梧桐の下には一碧楼、乙字、井泉水などの同志が集まり、新傾向運動は俳句界を席巻するかに見えた。

 四十四年の碧派機関誌「層雲」の刊行が新傾向運動のピークであった。ところが彼らの俳句革新運動は、あまりにも性急でとどまるところを知らず、俳句の形式破壊にまで進んでいった。明治四十四年一碧楼は無季、非定型を主張、大正二年井泉水は自由律俳句を唱え、大正三年碧梧桐は井泉水と袂を分かち「層雲」を去って一碧楼と「海虹」を創刊。乙字は同年臼田亜浪が創刊した「石楠」に拠る。

(中 略)

 観賞する場合、「春風」という季題が動かせない。春風駘蕩という言葉があるように春風はのどかに吹く風のイメージである。闘志という言葉の持つ激しさを内に秘め、暖かく穏やかに吹く春風に包まれて丘に立つ虚子。そうであればこそ人々が心豊かに集うことができたのだと思う。しかしのどかな春風は、実は冷たく厳しい冬を越えて吹くのである。

遠山に日の当りたる枯野かな

 明治三十三年十一月二十五日、虚子庵例会での作である。この時虚子は二十六歳であった。

 傑作と言われ、この句によって虚子独自の句境を確立したと言われる記念碑的な一句である。しかしこの句を解説するのは容易なことではない。

 一読して句意は誰にも理解できる。表現もただ素直に述べられていて表現上の技巧など皆無である。述べられた事柄にしても何かを鋭く切り取って来たというものではない。枯野の向こうに山が見えるという平凡な景である。ただその遠山には日が当っている。遠山と枯野の取り合わせにしても格別面白いものでも新しいものでもない。

 しかし人はこの平凡な風景句に即座に捨てがたい魅力を感じ、深いところで受容せざるを得ないだろう。

 その理由を考えてみよう。素直に叙されているので、読者の頭の中にすっと景が浮んで来るが、それは誰もが心の中に持っている懐かしい風景と重なるのではないだろうか。見渡す限り蕭条とした枯野の果てにぽっかりと日の当った山がある。寒々とした景の中でそこだけがあったかそうに明るく輝いている。そのことが荒涼とした枯野に立つ人に一点の心の火を転ずるのである。それは救いでもあり人生の希望でもある。

 人は皆そのような風景を心に抱いているそういう意味では普遍的な景と言ってもよいだろう。考えてみれば、遠山にしても枯野にしても普通名詞であって、具体的な山や野ではない。題詠であるから、虚子は故郷松山の景を思い浮かべたのかも知れないが、それは虚子の心の中で抱かれ続けることによって具体性を捨象され抽象化された懐かしい景になっていたはずである。

 この句は眼前の事実を主観を加えないで、そのまま平明な言葉で表現した写生句とよく言われる。確かに純客観的な詠み振りであるが、温かで懐しい主観が秘められた句である。虚子の写生を考える上でも参考になる。

桐一葉日当たりながら落ちにけり

 明治三十九年八月二十七日、虚子三十二歳の作である。

 これはこの頃、虚子が週に一度開いていた「俳諧散心」と称する勉強会に出句された句である。

 「俳諧散心」は前にも少し触れたが、碧梧桐の勉強会「俳三昧」が新傾向へ傾斜していくのに対抗しての勉強会であり、内容は題詠で互選という形式での句会であった。ここに集まる人々は真の俳句を目指して真剣そのものであり、虚子に見込まれた飯田蛇笏も学生服を被って参加していた。

 この句は、〈遠山に日の当りたる枯野かな〉と共に客観写生の代表句のように言われる句であるが、題詠であり、かつて見た一枚の桐の葉が落ちる光景が彼にもたらした印象を頭に浮かべて作った、記憶の写生、心象の写生であることを忘れてはならない。

 虚子が俳句の理念としての花鳥諷詠と、それを支える技法としての客観写生を唱えるのはもっと後になってからであるが、この句などは後の主張を作品として先取りしたような見事な写生句である。

 一句を具体的に鑑賞してみよう。「桐一葉」は万象の秋をさきがけて知らしめる初秋の雰囲気に溢れた季題である。「一葉落ちて天下の秋を知る」(文禄)という中国の古典より出た言葉であって、そこには万象の衰えゆく淋しさ、秋の寂寞感が根源的に含まれている。日本の伝統的な詩歌はもちろんその心を本意として詠われて来た。

燈台は低く霧笛は峙てり

 昭和八年、虚子五十九歳の作である。旭川で行われた北日本ホトトギス大会に出席するために、八月十六日池内友次郎と星野立子を伴って北海道に旅立った虚子は、旭川、阿寒湖、屈斜路湖を廻り、二十三日釧路に到った。町の南端の知人岬に向かうと丘の上に真白な燈台があった。しかしその燈台は予期に反して背が低く、代わりに目を惹いたのが燈台に並んで屋根に据えつけられた大きな霧笛の装置であった。それは燈台よりも高く聳えていたのである。

 「割合に低い燈台であつたが其傍に煙管の雁首の様なものが突立つていたのは珍しかつた」と虚子は書いている。

 霧笛は霧が深い時に船舶や燈台がその位置を知らせるためにならす笛のことである。

 釧路港は霧の深い港である。霧が降りると全く視界が効かず、燈台が用をなさない。そのために巨大な霧笛を据えつけているのである。果してその夜は深い霧であった。そんな中、街の上で彼の霧笛が鳴っていたという。

 一句の背景として以上のようなことが分かっているので、この句を晝間見た実景であるとし、低い燈台と高い峙つ霧笛の装置を対比させたものと解釈する人も多い。それは「峙つ」の「高くそびえる」という字義にどうしてもとらわれるからであろう。

 しかし私はこの句からどうしても霧笛の響きが燈台の光さえも通らぬ濃霧の中を低くどこまでも広がっていくイメージを持ってしまう。

夏潮の今退く平家亡ぶ時も

 昭和十六年六月一日、虚子六十八歳の作である。

 「六月一日満鮮旅行への途次、門司着。福岡の俳人達に擁されて上陸。和布刈神社に至る。門司甲宗八幡宮にて披講。「船見えて霧も瀬戸越す嵐かな 宗祇」の句を刻みたる碑あり」という長い詞書がある。

 昭和十六年六月一日、虚子は関門海峡に臨み名にし負う早鞆の瀬戸を見下ろした。対岸には指呼の間に
壇ノ浦が見え、そこには安徳天皇を祀った赤間神社がある。

 折しも落潮時を迎えた潮流はその流れを逆転させ瀬戸内から響灘に向かって轟々と音を立てて奔流する。この雄渾な退潮のさまを眼前にしながら虚子は、はるか寿永の昔、この地で戦われた源平の最終戦争、壇ノ浦の合戦に思いを馳せたのである。この合戦では、初め平家が有利であったが、退潮時となり潮流が逆転すると源氏はその流れに乗り一気に平家を撃破し、平家一門は海の藻屑となって滅び去った。

 平家が滅びたのはまさに目の前の退潮時であったのだと感慨にふける虚子の脳裏には、平家滅亡の様子が手に取るように見えていたのかも知れない。

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