旅のあれこれ


『江戸名所図会』

天保年間(1830〜1843)に斎藤月岑が7巻20冊で刊行。

巻之一

新大橋


両国橋より川下の方、浜町より深川六間堀へ架す。長さ凡そ百八間あり。この橋は元禄六年癸酉、始めてこれをかけ給ふ。両国橋の旧名を大橋と云ふ。故にその名によつて新大橋と号けらるゝとなり。

『風羅袖日記』 元禄五申年の冬、深川大橋なかばかゝりけるとき

初雪やかけかゝりたるはしのうへ
   芭蕉

   同じく橋成就せし時

ありがたやいたゞいて踏むはしの霜
   同

俳仙宝晉斎其角翁の宿


茅場町薬師堂の辺(あたり)なりと云ひ伝ふ。元禄の末ここに住す。即ち終焉の地なり。

按ずるに、「梅の香や隣は荻生惣右衛門」といふ句は、其角翁のすさびなる由、普(あまね)く人口に膾炙す。依つてその可否はしらずといへども、こゝに注してその居宅の間近きをしるの一助たらしむるのみ。

三ツ橋


一ツ所に橋を三所架せし故にしか呼べり。北八町堀より本材木町八丁目へ渡るを弾正橋と呼び、(寛永の頃今の松屋町の角に、島田弾正少弼やしきありし故といふ。)本材木町より白魚屋鋪(やしき)へ渡るを牛の草橋といふ。又白魚屋鋪より南八町堀へ架するを、真福寺橋と号くるなり。

霊巌島


箱崎の南にあり。(町数今十八町ばかりあり。)昔雄誉霊巌和尚、この地の海汀を築き立つてゝ梵宮を営みて、霊巌寺と号く。(依つて後世、霊巌島といふ地名起れり。初めは江戸の中島とよびしとなり。『東海道名所記』に、れいがん島も江戸の地をはなれて、東の海中へ築き出したる島なりと云々。)後世寺を深川へ移されて、その跡を町家となし給ふといへり。故にこの地の北の通りより茅場町へ渡る橋を、霊巌橋と号けたり。

住吉明神社


佃島にあり。祭る神、摂州の住吉の御神に同じ。神主は平岡氏奉祀す。 正保年間摂州佃の漁民に、初めてこの地を賜はりしよりこゝに移り住む。 本国の産土神(うぶすな)なる故に分社してこゝにも住吉の宮居を建立せしとなり。(摂州佃村は、西成郡にあり。『古今集』にたみのゝ島とよめるはこれなり。かしこにも住吉明神の宮居ありて、神功皇后三韓征伐御帰陣の時、その地に御船の艫綱をかけ給ひしより已降(このかた)佃村の地に御船の鬼板を伝へ、いつき祭る事、千有余年なりといへり。当社はこの分社たり。)毎歳六月晦日名越祓修行あり。(例祭は毎歳六月廿八日・廿九日両日なり。人々群集す。)

      逍遥院実隆公住吉奉納和歌十首の題を詠じて奉りし中に

      江上月
   戸田茂睡

   この浦の入江の松に澄む月のみなれそなれて幾秋かへむ

名月やこゝ住吉のつくだじま
   其角

巻之二

金沢山称名寺


町屋村にあり。弥勒院と号す。真言律にして南都の西大寺に属す。当寺は亀山帝の勅願所にして、北条越後守平実時の本願、その子顕時の建立なり。(実時を称名寺と号け、又法名を正慧といふ。この地に居住せらる。顕時より金沢を家号とす。顕時、法名を慧日と号す。霊牌に弘安三年三月二十八日に卒すとあり。)

巻之三

宝晋斎其角翁の墓


同じ向う側、上行寺といへる日蓮宗の寺境にあり。其角、姓は竹下、父を東順といふ。(江州堅田の人、医を業とす。)榎本といふは母の姓なり。儒は寛斎先生に学び、詩は大顛和尚を師とす。書は佐々木玄竜の教を受けて、自ら一家の風あり。医は草苅氏某に就いて術を得、画は朋友英一蝶に倣ふ。延宝のはじめ芭蕉翁の門に入りて俳諧を学び、つひに名をなせり。雷柱子、狂雷堂、有竹居、六蔵庵、善哉庵、文庵、及び螺舎、渉川等の数号あり。晋子とはその戯号なるべし。幼稚の頃お玉が池に住み、後堀江町に移る。又芝の神明町、茅場町等にも庵せる事は『五元集』その余の俳書に見えたり。宝永四年丁亥二月晦日卒す。享年四十七。著(つく)る所の俳書凡そ二十余部、各世に行はる。

目黒不動堂


同じ所の西百歩あまりにあり。泰叡山滝泉寺と号す。天台宗にして東叡山に属せり。開山は慈覚大師、中興は慈海僧正なり。

本堂不動明王 慈覚大師の作、脇士(けふし)は八大童子なり。

巻之四

牛天神社


小石川上水堀の端にあり。一に金杉天神とも称す。この地を金杉と唱ふるによりてしか号(なづ)く。(金杉、古は金曾木に作る。小田原北条家の所領役帳に、この地名を注せり。金剛寺の条下に詳なり。合せみるべし。)別当は天台宗にして泉松山竜門寺と号す。神体は菅神自ら彫造し給ふといひ伝へて、御長(みたけ)六寸あり。(当社の旧地は社地より東の方、今水府君の邸中に入りたり。神木船繋松も同所にありと云ふ。)

竜隠庵


同じ所上水堀の端にあり。昔は真言宗にして安楽寺と号く。故ありて元禄十年丁丑黄檗宗に改め、洞雲寺の持となり(洞雲寺は音羽町八丁目の西の裏にあり。)平石和尚住持す。本尊は正観世音、慈覚大師の彫造といふ。庵の前には上水の流れ横たはり、南に早稲田の耕田を望み、西に芙蓉の白峯を顧みる。東は堰口にして水音冷々として禅心を澄ましめ、後には目白の台聳えたり。月の夕、雪の朝の風光も又備はれり。昔上水開発の頃、芭蕉翁(芭蕉翁、通称松尾甚七郎といひ、藤堂家の士(さぶらひ)たり。 この上水堀割の時、藤堂家へ普請の事を命ぜられしに、甚七郎この事を司どりし故、その頃この地に日々遊ばれしといへり。)この地に遊ばれしにより、後世その旧跡を失はん事を嘆き、白兎園宗瑞及び馬光などいへる俳師、この地の光景江州瀬田の義仲寺に髣髴たるをもて、五月雨に隠れぬものよ瀬田の橋、といへる翁の短冊を塚に築き、五月雨塚と号す。

雑司ヶ谷鬼子母神出現所


本浄寺より南にあり。この地を清土といふ。蒼林の中に小社(こみや)あり。則ち雑司ヶ谷鬼子母神出現の地にして、同じ神を鎮(まつ)れり。社前にある所の井泉を星の清水と号く。往古(そのかみ)鬼子母神出現の頃、この井に星の影を顕現(あらは)せし事ありし故に名づくるといへり。(その井桁の形三稜なる故に、土俗三角井とも字(あざな)せり。)

小石川

永禄二年小田原北条家の所領役帳に、桜井某所領の内に小石川本所といへる地名を加へ、島津孫四郎と云ふ人も、この地にて法林院松月分の地を領するよし記せり(菊岡沾凉云く、巣鴨の西北、根木俣橋の下を流るゝ所の水脈、小石川御殿の南より伝通院の後、柳町を流れて水府公御藩邸(やしき)の内を歴、水道橋の上の方にて神田川に会するもの、小石川の旧跡なりといへり。)

『回国雑記』

   小石川といふところにて
道興准后

我が方をおもひ深めて小石河いつを瀬にとかこひわたるらん

一時雨礫やふりてこいしかは
   芭蕉

凉風や猶ながらへば小石河
   宗因

板橋の駅


中仙道の首にして日本橋より二里あり。往来の行客常に絡繹たり。東海道は川々の差支へ多しとて、近世は諸侯を初め往来繁ければ、伝舎(はたご)酒舗(さかや)軒端を連ね繁盛の地たり。駅舎の中程を流るゝ石神川(しやくじがは)に架する小橋あり。板橋の名こゝに発(おこ)るとぞ。(板橋は上下に分てり。この地を下板橋と称す。上板橋は練馬通道にして、この地よりは西南の方の通路をいふ。)

按ずるに、この地を板橋と唱ふる事、『義経記』にみえたり。太田原北条家の所領役帳に、板橋又太郎板橋にて毛呂分の地を領し、太田新六郎も板橋大炊助(おおいのすけ)屋敷分の地を領し、恒岡弾正忠も板橋高本方の地を領する事を挙げたり。

調神社


浦和の駅より三町ばかりの此方(こなた)、岸村と云ふにあり。社は街道より右に立たせ給ふ。今、世に月読の宮二十三夜と称せり。別当は月山寺と号して、浦和町の玉蔵院より兼帯す。(新義の真言宗、三宝院の宮に属す。)例祭は九月二十日なり。社の向拝に掲くる調神社の額は、松平信定朝臣の筆跡なり。

祭神 月読命一坐、本地勢至菩薩。(この本地仏により二十三夜の称あり。)

大宮氷川神社


大宮駅の中(この所を氷川戸庄高鼻村といふ。)街道の右の方に鳥居・立石あり。これより十八町入りて御本社なり。神領三百石、神主角田氏・岩井氏これを奉祀す。祭神三座、本社の右は素盞雄尊(男体の宮と称す。奥の社ともいふ。)同じく左は奇稲田媛尊(女体の宮と称す。これも奥の社と唱ふ。)本宮は大己貴尊を斎ひ奉る。(簸王子宮と称す。)これ即ち武蔵国第一宮にして、延喜式明神大社、大月嘗新嘗に列する第一の官社たる所なり。

巻之五

中島弁財天


不忍池の中島にあり。当社は江州竹生島のうつしにして、本尊弁財天および脇士多門・大黒の二天、ともに慈覚大師の作なり。

社伝に曰く、往古東叡山草創の時、慈眼大師この池を江州の琵琶湖になぞらへ、新たに中島を築き立てて、弁天の祠を建立せられしと云々。(『江戸名所記』には、水谷伊勢守建立せらるゝとあり。)

目赤不動堂


駒込浅香町にあり。伊州赤目山の住職万行和尚回国の時、供奉せし不動の尊像屡(しばしば)霊験あるに仍つて、その霊験を恐れ、別に今の像を彫刻してかの像を腹籠とす。 則ち赤目不動と号し、この所に一宇を建立せり。(始め千駄木に草堂をむすびて安置ありしを、寛永の頃大樹御放鷹の砌、今の所に地を賜ふ。千駄木に動坂の号(な)あるは、不動坂の略語にて、草堂のありし旧地なり。)後年(のち)終に目黒目白に対して目赤と改むるとぞ。

川口善光寺


川口村渡場の北にあり。天台宗にして平等山阿弥陀院と号す。本堂には阿弥陀如来・観音・勢至一光三尊を安ず。寺伝に曰く、往古定尊といへる沙門あり。法華経を誦するの外他なし。建久五年の夏一時(あるとき)睡眠の中に、信州善光寺如来の霊告を得る事あつて、直ちにかしこにまうで、正しく如来の聖容を拝す。示現に依つて、十方に勧進し財施を集め、金銅を以つて中尊阿弥陀仏を鋳奉る。時に建久六年己卯五月十五日なり。

巻之六

金龍山浅草寺


伝法院と号す。坂東順礼所第十三番目なり。天台宗にして、東叡山に属せり。

按ずるに、『東鑑』に、建久三年壬子五月八日、法皇四十九日の御仏事百僧供を修せらるゝと、その条下に、僧衆の中浅草寺よりも三口とあり。又同書に、建長三年辛亥三月六日、浅草寺へ牛の如きもの忽然と出現し奔走す。時に寺僧五十口ばかり食堂に集会する所に、件の恠異(けい)を見て、廿四人立ち所に病痾を受く、七人即座に死するよしを記せり。寺僧五十口ばかりとあるときは、往古も猶大伽藍なる事をしるべし。永禄二年小田原北条家の分限帳に、浅草寺家分四拾貫九百文を附せらるゝよし出でたり。

石枕(坊中東中谷明王院にあり。庭中に小さき池あり。これを姥が池と号す。また当寺の什宝にこの石の枕あり。伝説は、文明年中道興准后『回国雑記』に出でたる文章をこゝに記す。頗る俗伝と異なり。旧記たるをもつて、左に挙げてその伝へ来る事の久しきをしらしむ。)

『回国雑記』

この里のほとりに石枕といへるふしぎなる石あり。その故を尋ねければ、中頃の事にやありけむ、なまさぶらひ侍り、娘を一人持ちはべりき。容色おほかたよのつねなりけり。かの父母娘を遊女にしたて、道ゆきひとに出でむかひ、かの石のほとりにいざなひて、交会のふぜいを事としはべりけり。兼てよりあひづの事なれば。折をはからひてかの父母枕のほとりに立ち寄りて、ともねしたりける男のかうべをうちくだきて、衣裳以下の物を取りて、一生を送り侍りき。さるほどにかの娘つやつや思ひけるやう、あなあさましや、幾程もなき世の中に、かゝるふしぎの業をして、父母もろともに悪趣に墮して、永劫沈淪せん事のかなしさ、先非に置きては悔いても益なし。これより後の事さまざま工夫して、所詮我父母を出しぬきて見んと思ひ、ある時道行く人ありと告げて、男の如く出で立ちて、かの石に臥しけり。いつもの如く心得て頭を打ちくだきけり。急ぎ物ども取らんとて引きかづきたる衣をあけて見れば、人独りなり。あやしく思ひてよくよくみれば我娘なり。心もくれまどひてあさましと云ふばかりなし。夫よりかの父母すみやかに発心して、度々の悪業をも慙愧懺悔して、今の娘の菩提をも深くとぶらひはべりける、と語り伝へけるよし、古老の人申しければ。

  つみとがのつくる世もなき石枕さこそはおもき思ひなるらめ

当所の寺号浅草寺といへる。十一面観音にてはべり。たぐひなき霊仏にてましましけるとなん。下略。

駒形堂


駒形町の河岸にあり。往古は此所に浅草寺の総門ありしといふ。(その頃は左右並木にして、桜花数株を植ゑまじへ、春時は殊更ながめも深かりしにや。寛永二十年の印本『東めぐり』といへる書に、駒形堂の近辺、並木の桜花爛漫たるよしをしるせり。)本尊は馬頭観音なり。『浅草寺縁起』に、天慶五年安房守平公雅浅草寺観音堂造営の時、この堂宇も建立ありしよしを記せり。(祈願ある者賽(かへりまうし)には、かならず駒の形を作り物にして堂内へ奉納す。故に駒形堂と唱へ、地名もまたこれに因つておこる。)この堂の傍に浅草寺領内殺生禁断の碑あり。

時雨岡


同所庚申塚といへるより三四丁艮の方、小川に傍うてあり。一株の古松のもとに、不動尊の草堂あり。土人この松を御行の松と号く。来由は姑(しばら)くこゝに省略(もら)す。(一に時雨の松ともよべり。)

『回国雑記』

   忍ぶの岡といへる所にて、松原のありけるかげにやすみて、

霜の後あらはれにけり時雨をば忍びの岡の松もかひなし 道興准后按ずるに、忍の岡といへるは東叡山の旧名なり。この地も東叡山より連綿たれば、『回国雑記』に出づるところの和歌の意を取りて、後世好事の人の号けしならん歟。

東陽山正燈寺


竜泉寺町にあり。妙心寺派の禅刹にして、承応三年に愚堂和尚草創す。(和尚は大円宝鑑国師と諡号(おくりな)す。天性明敏にして大いに禅海の浩濤を皷起す。宝鑑国師の語録につまびらかなり。)当寺の後園楓樹多し。(その先山城高雄山の楓樹の苗を栽ゆると云ふ。)晩秋の頃は、詞人吟客こゝに群遊しその紅艶を賞す。

熊野権現社


同北の方千住川の端にあり。祭神伊弉冊尊一坐。社殿に云く。永承年中義家朝臣奥州征伐の時、此地(ここ)に至り河を渡らんとするに、奇異の霊瑞あり。故に鎧櫃に安ぜし紀州熊野権現の神幣(みてぐら)を、この地にとゞめて熊野権現と斎きたてまつるといへり。

按ずるに、熊野権現・飛鳥明神、何れも紀州に鎮坐あり。又この地に両社あるも、所謂(いはれ)あるべきことなれども、今伝記とりどりにして詳なることを得ず。余説を設けんと欲(す)るといへども、しげきをいとひてこゝに略す。

千住の大橋


荒川の流に架す。奥州街道の咽喉なり。橋上の人馬は絡繹として間断なし。橋の北一二町を経て駅舎あり。この橋はその始め文禄三年甲午九月、伊奈備前守奉行として普請ありしより、今に連綿たり。

八幡宮


六月村にあり。別当を炎天寺と号す。伝へ云ふ、八幡太郎義家朝臣奥州征伐の時、この国の野武士ども道を遮る。その時六月炎天なりければ、味方の勢労れて、戦はんとする気色もなかりしにより、義家朝臣心中に鎌倉八幡宮を祈念ありしかば、不思議に太陽繞(めぐ)るが如く光りを背に受けければ、敵の野武士等日にむかふ故に眼(まなこ)くらみ、大いに敗北しぬ。依つてこの地に八幡宮を勧請ありしとぞ。この故に村を六月といひ、寺を炎天と称し、又幡正山と号すとなり。

聖天宮


真土山にあり。別当は、天台宗金龍山本龍院と号く。伝へ云ふ、大同年中の勧請にして、江戸聖天宮第一の霊跡なりといへり。(『和漢三才図会』『江戸鹿子』等の書に、斎藤別当実盛深く尊信の霊像なりといへり。)

弁財天祠(山の麓、池の中島にあり。平政子崇尊の霊像なりといへり。)この所今は形ばかりの丘陵なれど、東の方を眺望すれば、墨田河の流れは長堤に傍うて容々たり。近くは葛飾の村落、遠くは国府台の翠巒(すゐらん)まで、ともに一望に入り、風色尤も幽趣あり。

巻之七

採荼庵の旧跡


同所平野町にあり。俳諧師杉風子の庵室なり。 杉風本国は参州にして杉山氏なり。 鯉屋と唱へ、大江戸の小田原町に住んで魚售(なや)たり。後隠栖して一元と号す。(衰翁・衰杖等の号あり。)常に俳諧を好み、檀林風を慕ひ、のち芭蕉翁を師として、この筵に遊ぶ事凡そ六十年、翁常に興ぜられて云く、去来は西三十三箇国、杉風は東三十三箇国の俳諧奉行なりと。(かばかりのこの道の達人なりしなり。杉風一に芭蕉庵の号ありしが、後桃青翁にゆづれり。その旧地は次の芭蕉庵の条下に詳なり。享保十七年壬子六月十三日八十六歳にして沒せり。西本願寺の中成勝寺に塔す。)

『杉風句集』

   予閑居採荼庵、それがかきねに秋萩をうつしうゑて、
   初秋の風ほのかに露おきわたしたるゆふべ

白露もこぼれぬ萩のうねりかな
   はせを

   このあはれにひかれて

萩うゑてひとり見ならふやま路かな
   杉風

五本松


同所小名木川通り大島にあり。(或人云く、旧名女木三谷(をなぎさや)なりと。古き江戸の図にうなぎ沢とも書けり。『江戸雀』小奈木川に作る。又この地に鍋匠(なべつくり)の家ある故に、俗間字して鍋屋堀とよべり。) 九鬼家の構の中より、道路を越えて水面を覆ふ所の古松をいふ。(昔は、この川筋に同じ程の古松五株までありしとなり。他は枯れてたゞこの松樹(まつ)のみ今猶蒼々たり。)又この川を隔てゝ南岸の地は、知恩院宮尊空法親王御幽棲の旧跡なり。(同卷本所霊山寺の条下を合せみるべし。)

芭蕉庵の旧址


同じ橋の北詰、松平遠州侯の庭中にありて、古池の形今猶存せりといふ。 延宝の末、桃青翁、伊賀国より始めて大江戸に来り、杉風が家に入り、後剃髪して素宣と改む。又杉風子より芭蕉庵の号を譲り請け、夫より後この地に庵を結び、泊船堂と号す。(杉風子、俗称を鯉屋藤左衛門といふ。江戸小田原町の魚牙(なや)子たりし頃の簀(いけす※竹冠+禦)やしきなり。後この業をもせざりしかば生洲に魚もなく、自から水面に水草覆ひしにより、古池の如くになりしゆゑに古池の口ずさみありしといへり。)

三囲稲荷社


小梅村田の中にあり。(故に田中稲荷とも云ふ。)別当は天台宗延命寺と号す。神像は弘法大師の作にして、同じ大師の勧請なりといへり。文和年間三井寺の源慶僧都再興す。慶長の頃迄は今の地より南の方にありしを、後この地に移せり。当社の内陣に英一蝶の描ける、牛若丸と弁慶が半身の図を掲けたり。

『五元集』

      牛島みめぐりの神前にて、雨乞するものにかはりて、

   夕立や田をみめぐりの神ならば
   宝晋齋其角

      あくる日雨ふる。

(社僧云く、元禄六年の夏大いに干魃(ひでり)す。しかるに同じ六月の廿八日、村人あつまりて神前に請雨(あまごひ)の祈願す。その日其角も当社に参詣せしに、伴ひし人の中に白雲といへるありて、其角に請雨の発句すべきよしすゝめければ、農民にかはりて一句を連ねて、当社の神前にたてまつりしに、感応やありけん。その日膏雨たちまちに注ぎけるとなり。その草は今も当社に伝へてあり。

白髭明神社


隅田河堤の下にあり。祭神は猿田彦命なり。祭礼は九月十五日に執行(しゆぎやう)せり。別当は真言宗にして西蔵院と号く。相伝ふ。天暦五年辛亥慈恵大師関東下向の頃、霊示によりて近江国志賀郡打下よりこの地に勧請し給ふとなり。天正十九年に至り神領を附し給ふ。

中 川


隅田川と利根川の間に夾(せま)りて流るゝ故に、中川の号ありといへり。 荒川の分流熊谷の辺よりはじめて、遠く埼玉と足立との両郡の合(あひだ)を流れ、利根川の分流も川俣よりはじまり、二水猿が俣の辺にて合し、飯塚・大谷・亀有・新宿等の地に添ひて、青戸・奥戸(おうと)・平井・木下(きげ)川及び小村井・逆井を経て海に入る。 (猿が俣より末を中川と称し、上を古利根川とよべり。往古(いにしへ)水戸黄門光圀卿水府入部の頃、この中川の水中にして一の壺を得たまひしより、年々宇治へ詰茶に登せらせ、その器を中川と命ぜられたり。)

行徳船場


行徳四丁目の河岸なり。土人新河岸と唱ふ。旅舎ありて賑はへり。江戸小網町三丁目の河岸よりこの地まで、船路三里八町あり。この所はすべて房総・常陸(じやうりく)の国々への街道なり。

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