|
小石川後楽園は寛永6年(1629年)に水戸徳川家の祖頼房が江戸の上屋敷の庭として造った庭園で、二代藩主の光圀の代に完成。 |
|
天保8年(1837年)9月29日、徳川慶喜は水戸徳川藩の上屋敷に生まれる。 |


|
ある日私はまあ宅(うち)だけでも探してみようかというそぞろ心から、散歩がてらに本郷台を西へ下りて小石川の坂を真直に伝通院の方へ上がりました。
電車の通路になってから、あそこいらの様子がまるで違ってしまいましたが、その頃は左手が砲兵工廠の土塀で、右は原とも丘ともつかない空地(くうち)に草が一面に生えていたものです。私はその草の中に立って、何心なく向うの崖を眺めました。今でも悪い景色ではありませんが、その頃はまたずっとあの西側の趣が違っていました。
『こころ』(下・10) |

|
昭和13年(1938年)4月27日、星野立子は小石川後楽園で沼蘋女さんをおなぐさめする会を催す。 |
|
四月二十七日、沼蘋女さんをおなぐさめする会を小石 川後楽園で催す。あい子さんの御案内で涵徳亭を会場に する。まだ公開されたばかりの公園なのでこの会場も如 何にも新しくもの淋しい。どうだんの花を見るのも久し ぶりだといひいひして公園内を散歩する。 空の色あせつ木の芽のあきらかや |
|
昭和13年(1938年)5月1日、高浜虚子は武蔵野探勝会で後楽園へ。高浜年尾等同行。 |
|
春闌(はるたけなわ)暑しといふは勿体なし 虚子 五月一日の日曜はまことにかゝる日であつた。 小石川の後楽園はこの四月公開されたばかりの処女地なので、探勝会でも一度は見て置くべきだと思つて虚子先生の御許しを得たのである。そしてこの庭園の西南隅に涵徳亭といふ園内唯一の部屋をもつた建物があるのを借用する約束をして置いたのであつた。
『武蔵野探勝』(名園観) |
|
春闌(はるたけなわ)暑しといふは勿体なし 五月一日 武蔵野探勝会。小石川後楽園、涵徳亭。 |
|
手をかざす我に藤房揺れ応へ |
| 昭和15年(1940年)、久保田万太郎は後楽園を訪れた。 |
|
小石川後楽園にて かはせみのひらめけるとき冬木かな
『草の丈』 |
| 昭和16年(1941年)10月2日、高浜虚子は七宝会で後楽園へ。 |
|
十月二日。七宝会。小石川後楽園、涵徳亭。 塵すてゝすぐになくなる秋の水 |

|
昭和36年(1961年)2月6日、星野立子は夏草会で後楽園へ。 |
|
二月六日 夏草会 後楽園 |
|
春浅き涵徳亭の離室に居 降りてやみ降りてやみ春浅きかな 池の面に春の雨脚今は無し |
|
昭和36年(1961年)5月31日、高浜年尾はきさらぎ会で後楽園へ。 |
|
五月三十一日 きさらぎ会 小石川後楽園涵徳亭 林泉の殆ど藻刈濁りして 藻刈人深き咳してゐたりけり 藻刈舟舷朽ちてゐたりけり 藻刈舟乗り捨てゝあり塵芥 |

|
昭和43年(1968年)6月23日、高野素十は後楽園に吟行。 |
|
同二十三日 後楽園 東京芹吟行 笹山を二つ置きたる夏の園
『芹』 |

