2019年香 川

平賀源内先生旧邸〜平賀源内先生銅像〜
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さぬき市志度に平賀源内先生旧邸がある。


平賀源内先生旧邸

 今から二百数十年前、日本の夜明けとも言うべき時代に現われ、数奇な運命をたどった源内先生は、高松藩の軽輩御蔵番の子として、ここ志度町新町に生れた。

 先生は幼名を伝次郎、四方吉(よもきち)。元服して国倫(くにとも)。通称を源内と呼んだ。また号を鳩渓、風来山人、天竺浪人。作家として福内鬼外、俳諧では李山と称した。

 宝暦2年、新知識の輸入地である長崎に留学し、主として医学、本草学を修め、帰郷後は磁針計、量程機の発明、陶器の製造など藩に新風を吹き込んだが、世間の風当りは強く、27才の時退官を願い出て江戸に立ち、田村藍水に師事する一方、昌平黌にも学んだ。

 宝暦7年、藍水と共に日本で最初の物産会を江戸湯島で開催、その後は自ら会主となった。高松藩では先生が名声を博するや、一方的に薬坊主格、切米銀十枚、四人扶持の藩士に召しかかえたが、先生は再び俸禄を辞した。

 その後伊豆に於ける芒硝の発見、紀州物産誌の編纂、物類品隲の刊行をはじめ、火浣布の創製、秩父中津川鉱山の発掘、寒熱昇降器の発明、源内焼、西洋画の教授、日本で初めてのエレキテルの復元など世人を驚かせた。この外、滑稽小説「根南志草」、「放屁論」、「風流志道軒伝」や浄瑠璃「神霊矢口の渡」、「弓勢智勇湊」「忠臣伊呂波実記」などの作品をつぎつぎ発表して江戸の人気を博した。

 安永8年、ふとしたことから人を傷つけ、同年12月18日、伝馬町の獄中で52才の心なじまぬ生涯を終えた。友人杉田玄白は、ひそかに遺体を引き取り浅草総泉寺に埋葬。そのほとりに碑を建て「ああ非常の人、非常の事を好み、行いこれ非常、何ぞ非常の死なる」と記し、先生の一生を讃えた。

 この旧邸は昭和54年3月25日源内先生二百年祭にあたり修復したものである。

財団法人 平賀源内先生顕彰会

平賀源内先生銅像


徳川幕府鎖國ノ時ニ在リテ夙ニ泰西ノ事情ニ通ジ科学ヲ応用シテ國利民福ノ計ヲ立テタルハ實ニ我ガ源内平賀先生ヲ以テ然リトナス 先生ハ一身百技ヲ兼ネ其著作發明ハ何レモ内外人ヲシテ驚嘆措カザラシム 資性聰明奇智ニ富ミ磊落不羈權勢ニ阿附セズ其鴻図ハ終ニ酬ユルニ由ナク悶悶ノ中ニ逝ケリ 先生ノ事績ハ史家ノ研究ヲ待ッテ益顯著トナル茲ニ同郷ノ巨匠小倉右一郎氏ニ嘱シテ銅像ヲ建テ英姿ヲ長シヘニ仰ガントス

昭和九年十月   平賀源内先生顯彰會

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