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上野公園〜時の鐘〜

上野公園の精養軒の近くに「時の鐘」がある。


時の鐘


時の鐘

花の雲鐘は上野か浅草か

芭蕉が詠んだ句はここの鐘のことである。

 時の鐘は、はじめ江戸城内で撞かれていたが、寛永3年(1626年)になって、日本橋石町3丁目に移され、江戸市民に時を告げるようになったという。元禄以降、江戸の町の拡大に伴い、上野山内・浅草寺のほか、本所横川・芝切通し・市谷八幡・目白不動・目黒円通寺・四谷天竜寺などにも置かれた。

 初代の鐘は、寛文6年(1666年)の鋳造。銘に「願主柏木好古」とあったという。その後天明7年(1787年)に谷中感応寺(現、天王寺)で鋳造されたものが、現存の鐘である。正面に「東叡山大銅鐘」、反対側には「天明七丁未歳八月」、下に「如来常住、無有変易、一切衆生、悉有仏性」と刻まれている。

 貞亨4年(1687年)、芭蕉44歳の時の句。芭蕉が聞いたのは「初代の鐘」ということになる。

 現在も鐘楼を守る人によって、朝夕6時と正午の3回、昔ながらの音色を響かせている。

迂闊なことに鐘の音を聞いた覚えがない。

明治29年(1896年)、子規は鐘楼を句に詠んでいる。

   上野 九句

花の山鐘楼ばかりぞ殘りける

『寒山落木』(巻五)

 昭和9年(1934年)12月2日、高浜虚子は武蔵野探勝会の東京名所遊覧で時の鐘へ。高浜年尾星野立子等同行。

   上野公園に著く

「皆様といよいよお別れをせねばならない上野に来ました。公園を一巡してお宿に車を著けませう……江戸時代の芭蕉の名句に、花の雲鐘は上野か浅草か、とあります東叡山の鐘はこの右手の桜の木立の中の丘の上にございまして今も私共に時を告げて暮れてゐます……韻松亭に著きました。では夕べの鐘の下でお別れを致します。皆様! 御機嫌よう……。」

『武蔵野探勝』(東京名所遊覧)

 小松宮彰仁(あきひと)親王銅像の所でまだ2月だというのに桜が咲き始めていた。



小松宮彰仁親王銅像

 彰仁親王は伏見宮邦家親王第8王子。安政5年(1858年)京都仁和寺に入って純仁法親王と称し、慶応3年(1867年)勅命により22歳で還俗、東伏見宮嘉彰と改称した。同4年1月の鳥羽・伏見の戦いに、征東大将軍として参戦。ついで会津征討越後口総督になり、戊辰戦争に従軍した。

 明治10年5月、西南戦争の負傷者救護団体として、博愛社が創立されると、9月その総長に就任した。同15年には小松宮彰仁親王と改称。同20年、博愛社が日本赤十字社と改名すると、総裁として赤十字活動の発展に貢献した。同36年1月18日、58歳で没。

 銅像は明治45年2月に建てられ、同3月18日、除幕式が挙行された。作者は文展審査員の大熊氏廣。『下谷區史』は当地に建てた理由について、寛永寺最後の門跡・輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)の兄宮であったことに因んだのだろうと推察している。

噴水の近くでは桜がきれいに咲いていた。


うへのゝ花見にまかり侍しに、人々幕打さは(わ)ぎ、ものゝ音、小うたの声さまざまなりにける。かたはらの松かげをたのみて

四つごきのそろはぬ花見心哉
   芭蕉


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