昭和24年(1949年)〜昭和40年(1965年)の15年余りをかけ、元松山市議会議長中西月龍氏(市議会議員中西智氏の父)により整備されました。 邸内には11基の句碑と御製の歌碑、御詠歌碑、集合句碑各1基があります。 さらに、観月山と呼ばれている山麓には茶室等の数多くの建造物があり、それらを総称して観月庵といわれています。 |
昭和27年(1952年)9月、中西月龍は松山駅前に富安風生の句碑を建立。 昭和29年(1954年)3月、高野山に登り、普賢院において森寛紹を師僧として得度する。 昭和30年(1955年)5月、風生庵新築。 |
明治24年(1891年)、薫花壇は松山に生まれる。 |
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明治41年(1908年)、碧梧桐門下として俳句を始める。 |
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昭和7年(1932年)、富安風生を選者に迎えて「糸瓜」を創刊。 |
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昭和23年(1948年)、富安風生は森薫花壇を訪れている。 |
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昭和41年(1966年)5月15日、富安風生の句碑除幕。 |
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昭和46年(1971年)10月16日、鹿島に富安風生の句碑を建立。 |
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昭和51年(1976年)3月6日、84歳で死去。 |
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昭和51年(1976年)5月、森薫花壇の句碑を建立。 |
富安風生の句「山道の掃いてあり多る初詣」を中心に観月庵句会の俳人15名の句を連ねた碑である。 |
庭内に別にまたわが句碑成れり。全く思ひ設けぬことなりし 寿詞(よごと)のなかにわが名読まるる枇杷青し
『晩涼』 |
昭和30年(1955年)5月、富安風生は観月庵を訪れた。 |
松山 観月庵 家鴨等も迎へ鳴きして芦茂る 三年見ぬ間にさまざまに模様変る 竹秋の障子はひりし水車小屋 月龍庵主わがために風生庵を新築 端座して四恩を懐ふ松の花
『古稀春風』 |
松山行。観月庵山荘。山内処々に庵。風生庵もその一つ。 或る庵は筍藪の中にあり 風生庵に泊るは十二年目。覚えある苗木の楓、のびたけて門を かばへり 待ちてくれねぎらひくれて若楓
『傘寿以後』 |
三津浜、観月庵・月竜氏の墓に詣づ 二句 浜木綿の実の逞しく主亡し 手をとられたる思出の磑の秋
『米寿前』 |