2012年三 重

「くれは水辺公園」〜【春の広場】〜
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木のもとに汁もなますも桜かな

 元禄3年(1690年)、芭蕉47歳の作。季語は「桜」で春。伊賀上野に帰郷していた芭蕉が3月2日、門人の小川風麦(藤堂藩士)邸の花見に招かれた席で詠んだ俳諧四十句の発句。芭蕉の会心の作で、自ら「軽み」の句と称した最初の句。3月中・下旬頃、大津の膳所に出て、同じ発句で近江の門人たちと巻きなおした歌仙が、誹諧撰集『ひさご』に収められている。

 (句意)
 桜の木のもとで酒肴を並べ花見をしていると、汁にも膾にも桜の花びらがはらはらと散りかかり、あたり一面桜の花びらに埋まってしまうようだ。



春なれや名もなき山の朝がすみ

 貞亨2年(1685年)、芭蕉42歳の作。季語「霞」で春。『野ざらし紀行』初稿本に、「ならに出るみちの程」と前書がある。2月中旬、『野ざらし紀行』の旅で帰郷していた芭蕉が早立ちし、伊賀上野から奈良に至る山々の情景を詠んだ途中吟。下5「朝がすみ」は初案で、この句形を採る古俳書類が多いが、紀行の推敲課程をみると、「朝がすみ」を「薄霞」に改めたことが、『野ざらし紀行』(濁子絵巻本)等で明らかである。「春なれや」には、「春だなあ」という詠嘆の意が込められる。歌人たちは大和の天の香具山・佐保山など歌枕である名山の霞に春の到来を詠んできた。そうした古典の伝統を念頭に置きながらも、それを打ち返し、「名もなき山の朝霞」に眼をとめたところに、芭蕉俳諧の新しみがある。

 句意は、「ああ、いよいよ春が来たのだなあ。いつもなら見過ごしてしまうような名もない山々にも、うっすら朝霞がたなびいていることよ。」

「旧大和街道」沿いに「薄霞」の句形で句碑がある。



旅がらす古巣は梅になりにけり

 貞享2年(1685年)、芭蕉42歳の作。季語は「古巣」「梅」で春。

 伝土芳筆『芭蕉翁全伝』に「此句ハ作影亭ニテ梅烏ノ画屏ヲ見テノ作也、是ニ歌仙有」とあることから、作影亭に広げられていた屏風絵を見ての挨拶吟であろう。

 前年8月、『野ざらし紀行』の旅に出て郷里伊賀上野で越年、この年正月の作。

 「旅烏」は、巣を離れ飛び回っている烏に常に旅がちな自分の身をたとえたもの。「古巣」は、烏が住んでいた巣、つまり芭蕉の故郷をさしている。

 (句意)故郷を出て、漂泊の旅に生活を送っている私だが、久しぶりに懐かしい故郷に帰ってみると、昔と変わらぬ様子で梅の花が咲き匂っていることだ。



凩に匂ひやつけし帰り花

 元禄4年(1691年)、芭蕉48歳の作。季語は「凩」と「帰り花」で冬。『後の旅』(如行編)の前書に「耕雪子別墅則時」とある。長年にわたり上方に逗留していた芭蕉が江戸へ帰郷の途次、大垣の門人耕雪の別荘で即興に詠んだ句。耕雪は蕉門の俳人で『続猿蓑』(沾圃編)等にも句が見えるが、伝不詳。「子」は敬称。「帰り花」とはその季節でもないのに咲く花で、忘れ花、帰り咲き花ともいい、冬の小春日和に促され、時ならず樹木が花をつける。その帰り花を暖かな人柄である主人にたとえ、木枯の吹く冬でも和やかに暖かな耕雪の人柄を褒め挨拶とした。

 句意は「耕雪の別荘を訪れてみると、時ならぬ帰り咲きの花が咲いていた。ちょうど木枯が吹く最中であったが、その風に艶やかな彩りをつける花として咲き出たのであろうか。」

 【春の広場】周辺には、もうひとつ「ひごろにくき烏も雪の朝かな」の句碑があったようだが、見落とした。

後日、あらためて写真を撮りに行った。



ひごろにくき烏も雪の朝かな

 元禄3年(1690年)芭蕉47歳の作。季語は「雪」で冬。芭蕉真蹟自画賛に、「今朝、東雲の比、きそ寺(義仲寺)のかねの音枕にひゞき、起いでゝてみれば、白たへのはなの樹にさ〔き〕て、おもしろく」と前書する。上五を「つねににくき」とすることから、近江国膳所義仲寺の草庵で初案ができ、その後「ひごろにくき」と推敲され、『薦獅子集』(岱水編)に収められている。烏は憎きものとして見られ、門人支考の「百鳥ノ譜」(『風俗文選』所収)にも、「夕べには寝まどひ、朝にははやく起て、(中略)息などもつまるやうに啼て、いとどにくさげには侍るなり。」とあることから、芭蕉も「日ごろ憎き」の語になったのであろう。雪景色の白と、烏の黒の対比の妙に魅かれたのであろうか、眼前の雪景色の感興をそのまま句に表現している。

 句意は、「日ごろ鳴き声のやかましさに憎く感じている烏も、雪の朝、真白い樹々の枝に黒く点々と止っているのを見ると、これも雪景色の風情の一つだ。」

【秋の広場】へ。

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