2012年三 重

「くれは水辺公園」〜【秋の広場】〜
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一里は皆花守の子孫かや

 元禄3年(1690年)芭蕉47歳の句。季語「花守」で春。芭蕉真蹟懐紙に、「この国花垣の庄は、そのかみならの八重桜の料に備へられ侍りけるとかや、ものにも書つたへられ侍れば」と前書する。奈良の八重桜は伊勢大輔の「いにしへの奈良のみやこの八重ざくらけふ九重ににほひぬるかな」(『詞花集』)の歌にも有名な桜。『沙石集』等の説話集に、平安の昔、一条天皇の后上東門院が奈良興福寺の八重桜を京に移そうとしたところ、僧徒らが強く反対、后はその風雅心に感心し、伊賀国余野の庄を興福寺領に寄進して花垣庄となづけた。これより里人は毎年奈良に赴き花垣を結い、花の盛り7日間は宿直(とのい)を置き守らせた、との話がある。3月下旬頃、芭蕉は花垣庄を訪れ、古の風雅を偲び、土地の人に挨拶の意を込めた即興句。

 句意は、「ここ花垣の庄は、その昔、奈良の八重桜の咲く頃は花垣を結い、里人が宿直をして桜の花守をしたという由緒深いところである。今でも、この一里の人たちは皆、花守の子孫なのであろうか。」



名月に麓の霧や田のくもり

 元禄7年(1694年)、芭蕉51歳の作。季語「名月」「霧」で秋。伊賀の門人たちが生家の裏庭に草庵を新築して芭蕉に贈った。芭蕉は8月十五夜の中秋の名月の日に門人たちを招き、新居の披露を兼ねた月見の宴を催し、心からもてなしたときの句。

 当時、赤坂の庵から伊賀盆地が一望でき、薄霧が麓の田の面を覆い、霧が月光に明るく光っている感じを見事に詠んでいる。

 (句意)
 空には8月十五夜の名月が輝いている。向こうの山の麓の辺りには霧がたちこめ、山里の田の面に流れ込み、うっすらと雲ってみえる。



目にかゝる雲やしばしの渡り鳥

 芭蕉の作。制作年次未詳。季語「渡り鳥」で秋。『渡鳥集』(卯七・去来編)の巻頭「贈芭蕉翁御句文」によれば、この集の名に因んで門人支考の手許にあった芭蕉の句を贈ったことが知られる。ただし、同集には上5を「日にかゝる」の句形で収める。『蕉翁句集』(土芳編)・『芭蕉句選拾遺』(井筒屋寛治編)に上5を「目にかゝる」とするが、「日」を「目」と誤写したものであり、この句碑も『蕉翁句集』などからの選句であろうか。秋晴れの日の静かなひと時の情景で、渡り鳥の大群がしばし雲の如く太陽を覆った様子をとらえている。

 句意は「不意に太陽の光を遮る黒雲が湧いたと思ったのは勘違いで、渡り鳥の大群が太陽の光を遮り、辺りを暗くしたのであった。やがてはるかな空の彼方に消え去り、またもとの静か秋晴れが戻ってきた。

『蕉翁句集』(土芳編)は「元禄七戌ノとし」とする。



山吹や笠にさすべき枝の形

 元禄4年(1691年)、芭蕉48歳の作。季語「山吹き」で春。土芳の『蕉翁句集草稿』に「此の句にて、赤坂庵ニ巻半(半歌仙)有」とあるが、その作品はこんにち伝わらない。伊賀上野の実家で連句の発句として作った即興的な軽い発句で、郷里での楽しげな交友の様子がうかがえる。句は、山吹の咲いている様子から、花笠を連想したのが発想の契機である。

 (句意)
 美しい山吹の花がしなやかにたわみつつ、枝いっぱいに花をつけている様は、折り取って笠の飾りとして挿したらちょうどよい風情である。



影待や菊の香のする豆腐串

 元禄6年(1693年)、芭蕉50歳の作。季語「菊の香」で秋。『杉丸太』(佐越編)に「岱水亭にて」の前書がある。9月中旬、岱水亭に影待の宴に招かれたときの吟。岱水は江戸深川の芭蕉庵の近くに住み、芭蕉と親交の厚かった門人。度々芭蕉とともに俳席に一座しているが、姓氏不詳。「影待」は正月・5月・9月の吉日に懇意の客を招き、身を清め徹夜して日の出を待ち、願い事を祈る行事で、遊芸飲食が楽しみの一つ。「豆腐串」(豆腐田楽)という日常的な素材に、「菊の香」の優雅なものを配し、「軽み」の作風の工夫がうかがえる。主人岱水に対する挨拶の句。

 句意は、「岱水亭で影待をする日、田楽豆腐の接待があった。それだけでも充分主人のもてなしが感じられるのに、庭には菊の花が今を盛りと咲いていて、その菊の香が青竹の串に刺された田楽にしみこんでいるようで、風雅な心のこもった影待となった。

小さな芭蕉像があった。


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