俳 書
『蕉句後拾遺』(康工編)
安永3年(1774年)正月、自序。
尾崎康工は越中国砺波郡戸出村の人。八椿舎。
人も見ぬ春や鏡の裏の梅
鏡の裏といふ所有て、其里に年越の年旦なると説有、又大津の智月か尼に成し時の句ともいへり。何れにも元旦の句と聞え侍る。
風麦亭にて
あこくその心はしらず梅の花
紀貫之童名内教坊阿古久曽(アコクソ)といへり。人はいさ心もしらずの詠になぞらへ、初瀬の宿坊のごとく風麦亭に親しみの心むかしにかはらざるを陳べ給ひしならん。
木曽の情雪や生ぬく春の草
弥生も雪の残るを地上の佳気さかんにして春草の生えぬく勢自然と眉目動く木曽の路の逍遥にかかる所を見て作り給へるにや誠に其さまの思はれ侍りていよいよ深し。
雀子と声鳴きかはす鼠の巣
古家の蓬戸も巣(すくひし)物有て茅屋の暖にチウチウと啼かふさま春の有生の色々を移せり。青山忽己曙鳥澆舎鳴 是らに似たり。
ひとり尼わら家すげなし白つつじ
白躑躅のつきなく咲くは凄き物也。独尼の藁家すげなく所謂宮人入道の歌ひならん頗る新にして奇也
笠寺やもらぬ岩屋も春の雨
草の庵なに露けしとおもひけん漏らぬ岩屋も袖はぬれけり。笙の窟にて、僧正行尊。
闇の夜や巣をまどはして鳴千鳥
泊船集には夏の部に入れ、水鳥の巣といふ事にや、句選には、冬の部に入れ、猿蓑には春の部に入れ、是翁存命のうちの集なれば正しくすへきや。
這出でよ飼屋が下の蟇の声
春季ながら夏にもわたれば蟇の声をむすびて眼前体と見えたり。蟇は蚕につく物とぞ、歌に、朝霞かひやが下に鳴く蛙声だにきかばわれ恋ひめやも
柳ごり片荷は涼し初真桑
初物は少くして片荷と作れりの評有て理屈に走る柳籠履の奇麗なる片々に初真桑を涼しく荷ひ行形容を其ままに述ておのづから意味あり。
家はみな杖に白髪の墓参り
旧里にかへりて盆会をいとなむとあれば皆年経てあへば親類いつの間にか頭の雪と成り、思へば我もかくあらん、光陰のうつりやすきに今や又誰か先たち、誰か後れて墳墓の主とならんに観念したまへる一作膓を断つ。
盆過ぎて宵闇くらし虫の声
盆過ての宵闇と聞くも絶がたくさびしきさまを述て、くらしと重ねし所切々と悲し
蕣に我は飯くふおとこかな
和二角蓼蛍句一と有、「草の戸に我は蓼くふ螢哉」其角。世俗に心剛(つよ)き者を蓼喰虫と言によれるにや。蕣は翁若かりし時の吟と見へて虚栗に出て意気壮んなるにまかせ朝顔のもろきを観せず徒に飲食に明し暮すを爰に我をかへりみて述られしにや、いとも殊勝なり。
馬かたはしらじ時雨の大井川
かかる風景のたぐひなさも心なき身の大河の落来る水にかなしみ雨を叱るもおかし其情表に述るばかり也。
さればこそ荒れたきままの霜の宿
兼て閑人の住居たりとて心かけて訪れしに結ぶにくやし雨なかりせばといへるごとくの庵なるに、さればこそと其人の清廉を称し給へるにや余情言外に巍々たり。
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