2021年滋 賀

東 塔〜慈鎮和尚の歌碑〜
indexにもどる

西塔から比叡山内シャトルバスで比叡山バスセンターへ。

 元亀2年(1571年)、明智光秀は織田信長の比叡山焼き討ちに貢献し、坂本城の城主となる。

平和の塔元亀の兵乱殉難者鎮魂塚


平成4年(1992年)10月2日、建立。

平和の塔元亀の兵乱殉難者鎮魂塚について

 比叡山延暦寺は、元亀の兵乱すなわち織田信長の叡山焼討ちといういまわし歴史をもっている。今から420年前、元亀2年9月12日、信長軍は、坂本(比叡山東麓)の街を手始めに日吉山王21社すべてを焼き払った。次いで比叡山を目指し根本中堂以下3塔16谷の堂塔、僧房500を3日3晩かけてすべて焼き尽くした。また坂本の街から炎に追われて山上に逃げ込んだ者1,000余名、山上の僧俗あわせて1,000余名は、ことごとく焼殺、惨殺されたといわれる。

 天下布武を唱えて天下統一を目指す信長に旧勢力に属する延暦寺が、守護大名である越前の朝倉家や近江の浅井家などと連携して対抗したのがその基因であるが、あまりにも悲惨な出来事であった。

 比叡山は、その後秀吉、家康の庇護を受け復興されるが、その傷跡はあまりにも大きく、その後の比叡山に大きな陰をおとしている。

 420年を経た今、犠牲となった人々、仏法のため殉教した僧俗2,000余名のため、ここに塚を築き、遺品を埋め、塔を建立して追善の回向法要を修し、霊魂を鎮め先人達の霊を慰めんとするものである。

 なおまた攻め込んだ信長軍の戦没者の霊に対しても10年後に同じく本能寺で火に焼かれた信長その人の霊にも恩讐を越え、怨親(おんしん)平等の心をもって追善供養を施すものである。

 世界鎮護の如法塔の文字は、第253世天台座主のご染筆によるもので、この塔がさらに心の平安と恒久の世界平和を祈願している。

大講堂


大講堂【重文】

 天台座主第一世義真和尚の建立によるもので、僧侶が学問研鑽のため論議する道場です。

 ことに、慈恵大師が始修され、4年目ごとに行われる比叡山の古儀「法華大会広学竪義」は、一人前の天台僧となる為の重要な儀式、階梯として現在につづいています。

 現在の建物は、昭和31年の旧堂焼失後、山麓坂本にあったものを移築したもので、堂内には叡山で研修された各宗派の御開山の尊像が安置されています。

吉川英治『新平家物語』より

三塔十六谷に住む叡山の法師達は、まだ勤行にもつかない。未明の夢を、不意に醒まされた。「大講堂の鐘が鳴るぞぅっ…。大講堂に集まれいっ」誰かは知れぬが、どこかで雲を呼ぶように怒鳴っている。―ごうん、ゴウうん、ごうウウン…。鳴りやまない鐘の音を耳にしながら、法師たちは、下に、よろいを着こみ、上に法衣(ほうえ)をまとひ、太刀を帯び、薙刀(なぎなた)を持ち―老師の場合は、竹の入道杖をつき―われ先にと、谷々から、雲の湧くように、上ってゆく。

明治37年(1904年)10月、高浜虚子東洋城等と瑞雲院へ。

瑞雲院。とろゝ汁と納豆の御馳走になる。藍水、桂園、分潮、五
籟、文暉、鷺村、渚村の諸僧と余等五人と一題五句を作る。五句
が澄んで表に出る。一面の月光。千年の杉がついついと立つてを
る。夜寒膚に浸む。

 たふとさや御法の山の月の暈

 清浄な月を見にけり峰の寺

 杉の下に人話し居る月夜かな

 月を見れば露霜と凝る瞼かな

 琵琶湖より霧立ちのぼる月夜かな

 叡山は鐘も撞かずに夜寒かな


国宝根本中堂


延暦寺は天台宗の総本山である。

 昭和16年(1941年)3月31日、渋谷慈鎧は第二百四十九世天台座主となる。

 昭和16年(1941年)12月17日、渋谷慈鎧は伊勢神宮参拝。

 昭和18年(1943年)5月11、星野立子は渋谷慈鎧を訪ねた。

 五月十一日。比叡山延暦寺に渋谷慈鎧師を訪ふ。藤は
少し盛りすぎたれど日当る方は紫濃く美し。

  御僧をなつかしみ訪ふ若葉風


 昭和22年(1947年)10月7日、渋谷慈鎧死去。

 平成6年(1994年)、延暦寺は「古都京都の文化財」のひとつとして世界遺産に登録された。

平成28年(2016年)より平成の大改修。

延暦寺文殊楼


 重要文化財 建造物

延暦寺文殊楼 一棟

 文珠楼は、延暦寺根本中堂の正面の尾根上にあって、ほぼ東を向いて建っています。桁行(けたゆき)三間、梁間(はりま)二間、二重、入母屋造、銅板葺の構造をもち、一見楼門のように見えます。楼上には文殊菩薩が安置されています。

 創立は根本中堂と同じく古いものです。寛永の復興にあたって根本中堂、講堂とともに再建されましたが、寛文8年(1668年)に焼亡してしまいました。そのためすぐに再建された文珠楼が現在のものです。寛永の建物より小規模となり、全体的には唐様が取り入れられていますが、古い和様も忘れずに入っている所に苦心がしのばれる折衷様式となっています。いずれにしても江戸時代の代表的な様式の建造物です。

 昭和48年(1973年)に国の重要文化財に指定されました。

大津市教育委員会

谷崎潤一郎『二人の稚児』より

千手丸の使の男は、その日の朝の卯の刻ごろに、文殊楼の石段のほとりに待って居ると、果して其処へ瑠璃光丸はやって来たが、少年の答は彼の豫期に外れて居た。

「浮世は面白いであろうが、まろには少し仔細があって、山を降りるのを止めにする。まろは女人の情なさけよりも、やはり御佛の恵みの方が有り難い。」と、瑠璃光は云った。

慈鎮和尚の歌碑


 おほけなくうき世の
民におほふかなわが
 たつ杣に墨染の袖

出典は『千載和歌集』

『小倉百人一首』の歌で知られている。

慈鎮和尚は慈円の諡号。著作に『愚管抄』がある。

治承5年(1181年)、親鸞は9歳の時に慈円に得度を受ける。

建久3年(1192年)、38歳で天台座主になる。

   五十首歌めししに
前大僧正慈圓
秋をへて月をなかむる身となれりいそぢのやみを何歎くらん


中本紫公句碑


  落し文あらむか
月の比叡泊り

昭和21年(1946年)、俳誌「花藻」創刊。

昭和40年(1965年)5月、花藻社建立。

2021年滋 賀〜に戻る