2021年滋 賀

西 塔〜碑巡り〜
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横川から比叡山内シャトルバスで西塔へ。

傳教大師御遺訓


我が志を述べよ

天台宗開宗1200年記念に天台宗檀信徒会建立。

常行堂とにない堂


にない堂前に米田雄郎の歌碑があった。


しづやかに輪廻生死の
世なりけりはるくるそらの
かすみしてけり

昭和27年(1952年)、「好日」を創刊。

昭和33年(1958年)11月、好日社門下建立。

昭和34年(1959年)3月5日、68歳で没。

常行堂とにない堂の間の石段を下る。


釈迦堂


石段を見上げる。


恵亮堂


中西悟堂の歌碑があった。


樹之雫
   しきりに
  落つる暁闇の
比叡をこめて
  啼くほととぎす

16歳で得度し、比叡山で教義を学んだ後悟堂は、やがて慈愛のまなざしを野鳥や自然に向けるようになります。この歌も、そんな生命あるものに対する悟堂の温かさが詠まれたものです。なお、恵亮堂の前にあるこの歌碑は、悟堂が野鳥・自然保護運動の功績で文化功労者表彰を受けたことを記念して、学友と友人が建てたものです。

釈迦堂


転法輪堂(釈迦堂)【重文】

 転法輪堂は現在の西塔の中心をなす大堂で、ご本尊に釈迦如来を祀ることから、釈迦堂の名で親しまれています。

 延暦寺に現存する最古のお堂で、元は大津の園城寺(三井寺)の金堂であったものを豊臣秀吉の命により、文禄4年(1596年)に山上に移築したもので、造営年代は園城寺の記録から南北朝の貞和3年(1347年)と認められます。

 細部様式もその頃をよく表しており、根本中堂と同じく天台様式の典型で、内陣は土間中央に本尊を安置する宮殿を壇の上に設けています。

釈迦堂の左手に川村多実二の歌碑があった。


  時ならぬ
つばきの花を
    よろこびて
  めじろ友よぶ
    山かげの寺

川村多実二は日本野鳥の会京都支部初代支部長。

右手に九条武子の歌碑。


山の院連子の端に
 せきれいの巣あり
  ひな三つ母まちて鳴く

武子は九条良致と結婚し、ともに渡欧したが、わずか1年で1人で帰国し、その後も夫の外遊は10数年続いたといいます。夫の留守中に本格的に始めた歌の数々には、当時のわびしい心情や宗教的情操を詠み込んだものが多く、武子の作品を女性らしい情感あふれるものにしています。山寺の連子窓の端にある巣のなかで、親鳥の帰りを鳴きながら待っているセキレイのひなに、武子は自らの姿を重ねあわせていたのでしょう。

釈迦堂右手の道を行くと、若山牧水の歌碑があった。


比叡山の
 古りぬる寺の
     木がくれの
   庭の筧を
      聞きつつ眠る

『黒土』収録の句である。

若山牧水と本覚院

 旅と酒の歌人、“若山牧水”は大正7年5月に登叡。この西塔 “本覚院” に一週間滞在し、選歌や原稿をつづりて山に遊ぶ。

    比叡山(ひえやま)
         古(ふ)りぬる寺の木がくれの
                   庭の筧(かけひ)を聞きつつ眠る

 当時の“本覚院”は荒れ果て伊藤孝太郎という寺男が独り住む。牧水と寺男は夜ごと杯を傾けてお互いの人生を語りあった。

*若山牧水(明治18年〜昭和3年)

 宮崎県東郷町出身。旧制延岡中学−早稲田大学。歌誌「創作」を編集。生涯約6,900首を詠む。“牧水歌碑”は全国各地に約200基を数える。

*本覚院

 現在は 「学寮」 の名称で一般公募の修行僧の宿舎となっている。“庭の筧”は今も残る。

明治37年(1904年)10月、高浜虚子は東洋城等と山道を歩き、東塔の大学寮へ。

五十町の山道、東塔の大学寮に至る。

 猿啼くと一人がいへば夜寒かな

 提灯に驚いて飛ぶ小鳥かな

 道標や夜寒の顔を集め読む

 身に入むや踏み落す石の谷の音

 冬を待つ僧もあらずよ峯の坊

 茶立虫弁慶水はこゝと啼く

 学寮を出て来る僧に夜霧かな


比叡山内シャトルバスで東塔へ。

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