比叡山延暦寺は、延暦7年(788年)伝教大師最澄上人が国宝的人材の養成と国民の幸福をお祈りする祈願の道場としたことに始ります。 その後、伝教大師のご精神を受け継ぐために、幾多の修行僧が籠山修行されましたが、特に鎌倉時代の日本仏教各宗派を開いた祖師たちが輩出し大衆教化に専念して、仏教文化の華をさかせました。中でも浄土宗の開祖法然上人、浄土真宗の親鸞聖人、臨済宗の栄西禅師、曹洞宗の道元禅師、日蓮宗の日蓮聖人などは、この山で血のにじみでるような命がけの修行のすえ、自己の信ずる道に従って一宗一派を開いたのです。
延暦寺 |
このお堂は首楞厳院(しゅりょうごんいん)と称し、横川の中心となる大堂です。 第三世慈覚大師円仁上人が、嘉祥元年(848年)に開創し、本尊に聖観音を祀った以来豊臣秀頼と淀君の再建したお堂は昭和17年夏、雷火で焼失しましたが、幸いに本尊聖観音は災火を免れ、昭和46年伝教大師入滅千百五十年遠忌の記念として、当時を偲ぶ朱塗の美しい舞台造りが復元されました。 また、新西国観音霊場第十八番の霊場でもあり、善男善女の信仰のメッカです。 付近には横川全域に西国三十三所の観音石仏めぐりも出来、静寂な霊域でもあります。 |
元三大師は、僧名を良源(912〜985)といい、慈恵と諡する。正月の三日に亡くなられたことから元三大師と称せられている。近江の人で、少年の頃比叡山に入り、早くから学徳抜群の誉れ高く、将来を嘱望された。55歳にして比叡山の第十八代座主に昇り、僧儀を改革し、学問・修行の興隆をはかり、人材の育成に力を注ぎ、比叡山の最盛期を築きあげたことから、比叡山中興の祖と仰がれている。 門下三千人といわれ、この中からは、わが国浄土の祖とされる恵心僧都源信をはじめ、檀那僧正覚運、慈忍尊者尋禅、兜卒僧都覚超など幾多の名僧を輩出した。 大師は、ここ横川の地に住し、優れた法力を以て、種々の霊験を現され、仏法を守護し、多くの人々を救い護り導かれた。 生まれながらにして如意輪観音の化身と仰がれ、今日なお除災招福、五穀豊穣、善願成就を祈る多くの人々より「厄除け大師」、「角大師」として信仰を集めている。 また大師は、我が国における「おみくじ」の元祖としても知られる。 |
叡山横川。東洋城、水棹、鱸江、痩石と五人。仰木越を越して比 叡の裏山伝ひに横川中堂に出、恵心廟、大師堂を訪ふ。 霧の為に朽つる堂宇や杉の中 秋風の吹きも消たずよ常夜灯 恵心廟の前を歩くや月の鹿 |
西塔から横川へとつづく峰道は、その名のとおり峰をたどる道。この峰の終点、横川に縁が深く、そこで暮らしたこともあった虚子は、自分がたたずむ寺から見える月に毎夜何を思ったのでしょうか。作者の宿泊した地に対する愛情がひしひしと伝わる句です。 |
高浜虚子は在京の折、比叡山に登り「叡山詣」を著し、横川中堂の政所(一念寺)に泊り、小説「風流懺法(ふうりゅうせんぽう)」(明治40年)を執筆した。比叡山をこよなく愛した俳聖を称え、昭和28年10月に虚子の塔(逆修爪髪塔)が建立された。 毎年、俳聖を偲ぶ法要が一族をはじめ、慕う方々参列のもと、元三大師堂において奉修されている。 |
昭和28年(1953年)10月11日、逆修石塔開眼式。高浜年尾、稲畑汀子等参列。 |
十月十一日 虚子塔前にて座主以下逆修石塔開眼式あり、年尾、
汀子、初也も来り加はる 其他多数参列 わが墓に散華供養を受くるところ 元三大師堂俳句会 野分跡倒れし木々も皆佛 |
昭和34年(1959年)4月8日、虚子は85歳で没。 昭和34年(1959年)4月14日、虚子分骨埋葬。 |
十月十四日 虚子分骨埋葬 叡山横川 はらからに深きゆかりの露の塔 叡山に時雨るゝ墓となりにけり |
山田老師はじめお僧達に温く迎えられる。中井余花朗さんにいつもの通りにお世話になり、ジープで横川の元三大師堂へ。橙重、冨士子参加。 大師堂前でジープを下り、身軽になって一念寺から右に中堂跡を見、左に折れて虚子塔へ。春の日ざしは温く温くとあたりにさしわたり、全く静かである。久し振りに塔の前に立って父上と心の中で話をする。二十分程休み、恵心院の庭を見に行く。寒さがひどくてそうそうに大師堂帰る。 |
滋賀院で山田老師が、横川にはまだ雪が残っているであろう。といわれた。大師堂の軒から落ちてぴかぴかした雪が果して残っていた。 橙重、冨士子、渡辺恵進の三氏は帰り、森定さんは残られる。十時入浴、温まった勢いで残雪を踏んで外に出て見る。星が大杉の間に鋭く光っていくつもいくつもみえる。お父さんは天上に在る、と想っていつまでも仰いでいるとそんなに寒いとも感じない。炬燵に四方から足を入れて床に就く。 |
冴返り空高し月遠し星遠し 鎌倉も横川も春の月夜よし |
永観2年(984年)、全国に疫病が流行し、ちまたでは疫病の神が徘徊して多くの人々が、次々と全身を冒されていった。 お大師さまは、この人々の難儀を救おうと、大きな鏡の前に自分のお姿を映されて静かに目を閉じ禅定(座禅)に入られると、お大師さまの姿はだんだんと変わり、骨ばかりの鬼(夜叉)の姿になられた。見ていた弟子達の中でただ一人明普阿闍梨だけが、このお姿を見事に写しとられた。 お大師さまは、写しとった絵を見て、版木でお札(ふだ)に刷るよう命じられ、自らもお札を開眼された。出来上がったお札を一時も早く人々に配布して各家の戸口に貼りつけるように再び命じられ、病魔退散の実を見事に示されたのであった。やがてこのお札(角大師の影像)あるところ病魔は恐れてよりつかず、一切の厄難から逃れることが出来た。以来千余年、このお札を角大師と称し、元三大師の護符として、あらゆる病気の平癒と厄難の消除に霊験を顕わし全国的に崇められているのである。 |
第十八代天台座主として19年間在職され、延暦寺中興の祖として仰がれる慈恵大師良源(元三大師)の住房であった定心房の跡をついでいるお堂で、村上天皇の勅命によって春夏秋冬の四季に法華経の論議が行われたので四季講堂の名があります。また、はじめは弥勒菩薩を本尊としていましたが、いまは元三大師の画像を本尊としてお祀りして大師信仰の根本道場となっているので、元三大師堂の別名でも呼ばれ、親しまれています。 |
はや露になじむ横川の句碑となる 横川路の朝の法燈露けしや
『さゆらぎ』 |
露の身を 大師に仕え 五十年 |
山ろくの み母したひて 夜ごと灯を かヽげましたる ひじりかなしも |
三搭巡礼の事侍りしに、横川の 常行堂のうち、竜華院と書ける ふるき額あり。
第二三八段 |
比叡山、特に横川で出家した兼好は、しばしば元三大師堂にも顔を覗かせていたようです。横川は地理的に不便な所だったかもしれませんが、昔は多くの人々が住んでいました。兼好も当時の人々と談笑しながら、著作活動などに有意義な日々を過ごしていたのでしょう。 |