旧門司税関は、明治42年門司港が一般開港に指定され門司税関が発足されたことを契機に、明治45年妻木頼黄の指導のもと、建築技師咲寿栄一により設計され、税関庁舎として昭和初期まで使用されていました。その後民間に払い下げられ事務所ビル、倉庫として利用された際に、建築の一部が撤去され、窓もブロックで閉鎖されたため、建設当時の姿を感じさせる建物とはいいがたいものとなってしまいました。しかし残された御影石による装飾などから、この建物が当時非常に優れた建築物であり、門司港地区の多くの歴史的建物の中でも明治時代の赤レンガの大変貴重な建物であることが分かりました。特に指導にあたった妻木頼黄による建物で現存する物としては、非常に貴重な建物であることも併せて確認できました。 そこで運輸省の港湾環境整備事業を活用し、平成4年度から平成6年度にかけ、竣工当時の外観に復元するよう、また内部についても多くの人が利用できるよう保存・改修工事を行いました。また平成25年度にはレンガの劣化部の補修、構造体の補強など改修工事を行い施設の長寿命化を図りました。
北九州市 港湾空港局 |
横浜正金銀行(現:神奈川県立博物館)、横浜赤レンガ倉庫も妻木頼黄の設計による建物だった。 |
昭和11年(1936年)2月21日、高浜虚子は門司着。上海に向かう。 |
梅を見て明日玄海の船にあり 風師山梅ありといふ登らばや 二月二十一日。朝、門司著。萍子招宴、三宜樓。 |
昭和11年(1936年)6月8日、吉井勇は下関から門司に入る。6月10日、高浜虚子帰国。吉井勇は歌を詠んでいる。 |
門司ではちょうど高浜虚子が欧州旅行の帰途、関門海峡を通過するというので、無電で船に歌を送ったところ、すぐに船から返電があって、「短夜を寝ず門司の灯を見て過ぎん」という句を送ってきた。
『私の履歴書』 |
六月十日 雑詠選了。対馬見え壱岐見え来る。大阪朝日九州支社 より、帰朝最初の一句を送れとの電報あり。 船涼し左右(そう)に迎ふる壱岐対馬 間もなく再び、「吉井勇氏今宵来社対談し、貴下を思ふの歌あり お知らせ申す「虚子の船赤間ケ関に寄らで過ぐ今宵の月夜ほくな 読みそね」との電報。返信に。 短夜を寝ず門司の灯を見て過ぎん |
昭和16年(1941年)6月1日、高浜虚子は門司から大連に向かう。 |
壱岐いきの島途切れて見ゆる夏の海 西日今沈み終りぬ大対馬おおつしま 壱岐低く対馬は高し夏の海 六月一日 門司より再び乗船、出帆。 |
ご存じですか、先の大戦中、ここ門司1号岸壁から200万人を超す将兵が、はるか南方の戦線に、あるいは大陸の戦地へと赴いたことを・・・ そして半数の100万人の将兵は、生きて再び故国の地を踏むことが出来なかったことも・・・ 門司港の山河を日本最期の風景としてその目に焼きつけ、遠く離れた戦線に向かった多くの将兵を偲び、恒久平和を願う不戦の誓いを込めて、ここに「門司港出征の碑」を建設しました。 近代日本黎明期から、門司港の発展にこの港湾が重要な役割を果たしてきましたが、この碑が忘れてはならない歴史の語り部となりますように・・・ |
昭和7年(1932年)、「岡崎旅館」創業。現在は料亭「岡崎」として営業している。 昭和33年(1958年)4月29日、高浜虚子は九州最後の旅で「岡崎旅館」を訪れている。 |
一人の便りにしてをつた娘を嫁がせたので、老夫婦がさびしく清潔に經榮してゐる旅館。物語に出て來さうな老夫婦。 |
老いて尚ほ雛の夫婦と申すべき | 虚子 |
年尾、杞陽等來門。同宿。 |
九州へ父の最後の旅であつた。甘木、秋月の句碑除幕。門司に出、関門トンネル開通祝賀句会。海底トンネルを下関まで徒歩。岡崎旅館の老夫婦へ贈つた句。
『虚子一日一句』(星野立子編) |
昔しを偲べば、大陸、欧州、台湾、国内航路の基幹と、九州鉄道の発着の基地点として大いに発展した、ここ桟橋通りは往昔の絵巻の一こまとして、アセチレンの灯のにぶい光の下で、黄色くうれたバナナを戸板にならべ、だれとはなしに産まれ伝わる名セリフは大正初期〜昭和13、4年頃まで不夜城を呈し、日本国中の旅行者の目を楽しませた。バナナの叩き売りの風情は、門司港のこの地桟橋通り附近を発祥の地と由来せし。
門司港発展期成会 北九州市門司区役所 |
平成29年(2017年)4月、「門司港バナナの叩き売り」は「関門“ノスタルジック”海峡〜の構成文化財の一つとして、JR門司港駅、旧門司三井倶楽部とともに「日本遺産」に認定されました。 |