蕉 門

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斯波園女

 寛文4年(1664年)、伊勢山田の神官の家に生まれる。医師斯波一有に嫁す。

婦人ながら體をたゞし敬屈の法を守る。貞潔閑雅の婦人なり實は伊勢松坂の人とぞ。風雅は何某に學びたりといふ事をしらず。岡西惟中が備前より浪華にのぼりし時、惟中が妻となる。此時より風雅の名ますます高し。惟中が死後、江戸にくだりて、其角が門人となる。

『芭蕉翁反古文』(藁井文曉編)

 貞亨5年(1688年)2月、芭蕉は『笈の小文』の旅の途次、園女亭を訪れている。

   園女亭

暖簾(のうれん)の奧ものゆかし北の梅


   かへし

時雨てや花迄残るひの木笠
   その女

 宿なき蝶をとむる若草
   翁

『笈日記』(支考編)

 元禄3年(1690年)2月、芭蕉に師事。

路通は園女を訪れている。

   伊勢の園女にあうて

雲の嶺心のたけをくつしけり
   路通

『薦獅子集』(巴水編)

 元禄5年(1692年)8月、大坂に移る。

壬申八月、神風やいせのふる郷をたちて、ふるき宮古のこゝにきたりぬ。その年も浪をいとあらたまの春をむかへて

   難波女に何からとはむ事はじめ

と賀してあそびき。


西鶴は挨拶の句を詠んでいる。

濱荻や當風こもる女文字


 元禄7年(1694年)9月27日、芭蕉は園女邸に招かれている。

白菊の眼に立て見る塵もなし
   芭蕉翁

 紅葉に水を流すあさ月
   その女


同年10月12日、芭蕉は大坂南御堂前花屋仁右衛門宅で死去。

 元禄11年(1698年)6月、去来は長崎へ旅に出る。途中大坂で園女を訪れる。


   園女にて先師の事ども申出ける
   序に

秋はまづ目にたつ菊の莟かな


 元禄16年(1703年)、夫に死別。

 宝永2年(1705年)、榎本其角を頼って江戸に出て、富岡八幡宮の門前に住む。

   寶晋齋のもとに馬おりし侍りて

霜やけも不二の光の心まゝ
   その女


富岡八幡宮に36本の桜を植え、「歌仙桜」とよんだ。

深川の斑象は「桜一木句一章」を勧進し、「園女歌仙桜」を再興。

記念集『桜勧進』がある。

東京都江東区門前仲町の深川公園に「園女歌仙桜の碑」がある。



 宝永6年(1709年)、『菊の塵』(園女自序、素堂跋)

 正徳4年(1714年)、稲津祇空は早雲寺の宗祇墓前で剃髪。園女は句を寄せている。

祇空子、ことし庵崎の有無庵にかへりすむ。その庵のさま、一石を繩床とし、數竿の竹を友とす。安眠高臥、白鴎の江南にあさるがごとし。噫たれかこれを羨ざらん。

鶴にまかせ斧をともなひ居士頭巾
   園女


 享保元年(1716年)4月3日、稲津祇空は庵崎の有無庵を出て奥羽を行脚。

聞ほしていつれあやめそ花かつみ


享保11年(1726年)4月20日、63歳で没。

東京都江東区白河の雄松院に墓がある。

秋の月春の曙見し空は夢か現か南無阿弥陀仏

埼玉県本庄市の安養院に「三俳人句碑」がある。



酒買に行くや雨夜の雁一ツ
   其角
ふとんきて寝たる姿やひがし山
   嵐雪
はつれはつれ粟にも似たる薄かな
   その女

園女の句

あたらしくそろひ織はやあら莚


   此春招かるゝ方ありて

分別に百里の羽や花の年

笠とれば六十顔のしぐれ哉


   けふ見るはなにわらはへをもてはやして

ことつかる菓子の封切櫻かな

   すみよしにまうてゝ神慮を仰き奉る

こからしや譲り合て海の汐


呉服所のあれハ誰やらこんひら會


蜑の子の肌なつかしやあしの花


しら糸に霜かく杖や橋の不二


家もたぬ燕かさびし顔の様


落かへる風より後のほたるかな


鼻紙のあいたにしほむすみれ哉


笠とれば六十顔のしぐれかな


負ふた子に髪なふらるゝ暑かな


それそこに更科河やそばの花


鶺鴒の尾にきざみ行日かけかな


手を延て折ゆく春の草木かな


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