俳 人

閑斎
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吉備中山の人。義仲寺の無名庵十世。別号梅関。椿杖齋。

閑斎   粟津 義仲寺


 文化元年(1804年)、主に「十九日」江戸で閑斎会が開かれていたようである。一茶もしばしば出席していた。

十二[日] 晴 閑斎

十九日 晴 閑斎会出席

『文化句帖』(文化元年8月)

 文化7年(1810年)1月、閑斎は江戸で巣兆成美等と交遊。

去廿八 雨 昼ヨリ晴 閑斎画会 巣兆 成美 麦宇等

『七番日記』(文化7年1月)

十三 雨 観音参詣 閑斎泊

廿六 曇 閑斎ニ入 甫時迄幽嘯を待 終ニ不来 三吟歌仙止

『七番日記』(文化7年3月)

 文化8年(1811年)、諸国を俳行脚した記念集俳諧道中双六』刊。

 文化10年(1813年)、『ひさごものがたり』刊。

 文化12年(1815年)10月12日、粟津義仲寺の時雨会に参列。

   一座念香

  九とせの年月を旅にへらし、けふや
  粟津翁塚にぬかつき
備后中山
菰枕ことしまことの初しくれ
   閑斎


 文化13年(1816年)、梅関と改号。

 文化14年(1817年)、東国の遊歴を終え帰国。『長櫃』上梓。

 文政3年(1820年)、閑斎に復し、義仲寺の無名庵十世となる。

 文政7年(1824年)と翌8年の2回にわたり、魚水は義仲寺を訪れ『諸国翁墳記』に洩れていた藤本家の芭蕉句碑を付け加えるよう願い出た。

藤本家の芭蕉句碑


草臥れて宿かるころやふちの花

 文政13年(1830年)、『粟津文庫』刊。

天保8年(1837年)頃、没。

天保11年(1840年)、松本の百瀬尚司は芭蕉の句碑を建立。閑斎書。



春雨の木下につとふ雫かな

滋賀県大津市の芭蕉道統歴代句碑に閑斎の句がある。



走る露あやうくとまる葉先哉

閑斎の句

行春やとしよりぶりの鳩の声


蔓草やはゝき立ても星の空


南瓜はおかしミ多き月夜哉


筑波へものぼるこゝろか蝸牛


八重かすみ焼蛤の塩からき


簔虫の巣はつみ残す茶の木哉


五月雨や鶯啼て寒くなる


ねばり気のぬけ降也春の雪


洗ひ苧のむしろに寒し椎が本


なしの花垣根に月の落んとす


   大井川渡る時

死(な)は夏三途の川も丸裸


絶て来て鶯寒し入梅のまど


めでたさの一番筆やまつの花


陸奥の雪昼日(ひねもす)毎の草まくら


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