旅のあれこれ
高杉晋作ゆかりの地
天保10年(1839年)8月20日、長門国萩城下菊屋横丁(現:山口県萩市)に長州藩士・高杉小忠太とミチの長男として生まれる。 安政6年(1859年)10月27日朝、吉田松陰は死罪を申し渡され、同日午前10時に伝馬町牢屋敷で刑が執行される。松陰は罪人として回向院に葬られた。 文久3年(1863年)、吉田松陰の墓所は高杉晋作らによって世田谷区若林の長州毛利藩藩主毛利大膳大夫の所領大夫山に改装される。 文久3年(1863年)6月、高杉晋作は白石正一郎宅で奇兵隊を結成。 文久3年(1863年)8月16日、教法寺事件。高杉晋作は奇兵隊總督を免じられた。 文久3年(1863年)、8月18日の政変(七卿落)。 元治元年(1864年)11月、野村望東尼は長州から逃れてきた高杉晋作を平尾山荘に匿う。 元治元年(1864年)12月15日、高杉晋作は功山寺で挙兵。 慶応元年(1865年)4月、徳川幕府は第二次長州征伐令を発す。 慶応元年(1865年)10月、野村望東尼は姫島(現:福岡県糸島市)へ流刑となる。 慶応2年(1866年)8月1日、幕軍総帥小笠原壱岐守が小倉城を脱出、小倉藩は自ら城に火を放って敗走した。高杉晋作は太鼓を持ち帰り、嚴島神社に奉納した。 慶応2年(1866年)9月、晋作の指揮により姫島から脱出の手引きをし、望東尼は下関の白石正一郎宅に匿われた。 慶応3年(1867年)4月13日(命日は14日)下関において結核のため27歳8ヶ月の生涯を閉じた。 |
木戸孝允・大村益次郎らによって東京招魂社(現在の靖国神社)に吉田松陰・久坂玄瑞・坂本龍馬・中岡慎太郎たちとともに祀られた。 |