2019年山 口

東行庵〜高杉晋作〜
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下関市吉田町に東行庵(HP)がある。

高杉晋作の墓所である。

小原六六庵の詩碑


   高杉春風隊長墓前作

奇兵隊長睡斯山 
奇兵隊長は斯の山に睡(ねむ)
明治以来悠俗寰 
明治以来(このかた)俗寰(かん)に悠(とおし)
想起當年不堪見 
当年を想い起せば見るに堪えず
杜鵑花発松柏間 
杜鵑(とけん)花発(ひら)く松柏の間

小原六六庵は本名小原清次郎。松山の漢詩人、書道家。

 昭和41年(1966年)4月14日、東行の百年祭に詣でたときの作。

 昭和54年(1979年)4月14日、高杉晋作の113回忌に清水流東行庵吟詠会結成10周年の記念行事として建立。

 昭和50年10月15日、逝去。享年75才。

無隣庵の歌碑


となりなき世をかくれ家のうれしきは

   月と虫とにあひやとりして

 慶応元年(1865年)、山縣狂介(有朋)は奇兵隊の軍監としてこの地にかりの住まいをつくり、「無隣庵」と名付けて心のやすらぎの地とした。

明治17年(1884年)5月15日、建立。

飯田蛇笏の句碑


松風にきゝ耳たつる火桶かな

 昭和6年(1931年)2月、寒い木枯らしの吹く東行庵を訪れた時の作。

昭和53年(1978年)10月19日、建立。

東行庵


 この地は清水山と称し、幕末の頃奇兵隊軍監山縣狂介(有朋)は麓に草庵を建て、無隣庵と名付けていた。慶応3年(1867年)4月、高杉晋作(東行)の遺言により遺骸を奇兵隊の本拠地に近いこの地に葬った。晋作に仕えていた愛人うの(後に谷梅処)は黒髪を断って出家したので、山縣は明治2年(1869年)無隣庵を梅処に贈り欧州に旅立った。

 現在の庵は明治17年伊藤博文・山縣有朋・井上馨等全国諸名士の寄付により建立されたもので、梅処は明治42年にその生涯を閉じるまで東行の菩提を弔った。

 昭和41年、東行の百年祭を機に庵の原型をとどめるため大修理を行った。

曹洞宗の寺である。

高杉晋作と野村望東尼の合作句。


面白きこともなき世を面白く 
   高杉晋作

   すみなすものは心なりけり 
   野村望東尼

 野村望東尼は福岡藩士野村貞貫の妻で、歌を大隈言道に学んでいる。夫と死別後、剃髪。

この歌の碑は防府市の防府天満宮にもある。

   (左側面)
   (右側面)

西へ行く人を慕ひて東行く
 吾去れば人も去るかと思ひきに

   わが心をば神や知るらむ
   人びとそなき人の世の中

平成13年(2001年)3月18日、建立。

横山白虹・房子句碑


梅寂し人を笑はせをるときも 
   白虹

(おばしま)に尼僧と倚りぬ花菖蒲 
   房子

 横山白虹は本籍地、山口県長門市、医学博士で現代俳句協会長、北九州文化連盟会長を歴任し、俳誌「自鳴鐘」を主宰して長く門弟を育成して来た。横山健堂の長男にあたる。昭和58年(1983年)11月18日、没。84歳。

 この句は、昭和34年の作である。

 横山房子は、白虹の夫人、現「自鳴鐘」の主宰である。この句は、昭和59年6月作、当東行庵で作られた。

昭和59年(1984年)11月11日、自鳴鐘門人建立。

高杉晋作像


原型:奈部雅昭。竹中銅器制作。

平成26年(2014年)3月、建立。

高杉晋作(東行)の詩碑


   題焦心録 
    焦心録に題す

内憂外患迫吾州 
 内憂外患吾が州に迫る
正是邦家存亡秋 
 正に是れ邦家存亡の秋
将立回天回運策 
 将に回天回運の策を立てんとす
捨親捨子亦何悲 
 親を捨て子を捨つる亦何ぞ悲しまん

 高杉晋作(東行)25歳、元治元年(1864年)晩秋の作(自筆)。

 元治元年12月15日、東行の長府功山寺における挙兵を「回天義挙」というが、「回天」の語がこの詩に出ているのが注目される。

芭蕉の句碑があった。


うぐいすを魂にねぶるか嬌柳(たおやなぎ)

出典は『虚栗』

天和3年(1683年)、芭蕉40歳の句。

 もと吉田町内天神山の藪のなかにあり、建立者は随流舎可柳とあることから自分の号にちなんでこの句を選んだものらしい。

 小宮豊隆は「荘周が夢に胡蝶となったという〈荘子〉の記述にヒントを得て、あの嬌柳は、うぐいすを魂にして眠っているのだろうと想像してこの句を作ったものに相違ない。無限に美しい春の世界を自然愛の濃やかさでまとめあげた句の一つである」と言っているそうだ。

東行池の蓮


東行墓へ。

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