平尾山荘は、女流歌人として幕末に活躍した野村望東尼が晩年を過ごした別荘です。 野村望東尼は文化3年(1806年)福岡藩士の娘として生まれ、名を「もと」といいました。 文政12年(1829年)同藩士野村貞貫の後妻となり、夫と共に歌人大隈言道に師事しました。その後、夫とともに平尾山荘に移り住み、安政6年(1859年)夫と死別し、望東尼と称しました。山荘は福岡藩士平野国臣はもとより勤王志士交流の場となり、長州の高杉晋作も一時身を寄せたといわれています。 福岡藩による勤王派の弾圧“乙丑の獄”のため望東尼も捕らえられ、慶応元年(1865年)、姫島(現在の糸島市志摩姫島)に流されます。翌年、高杉晋作の手配により救出され、下関へ逃れた望東尼でしたが、この山荘に戻ることなく、維新の直前の慶応3年(1867年)11月6日、三田尻(現在の山口県防府市)で亡くなりました。 |
まごころをつくしのきぬは国のため たちかえるべき衣手にせよ |
幕末動乱の時代國を憂うる若き志士たちより母のごとく慕われ、平尾山荘にかくまい支援した歌人野村望東尼。 元治元年(1864年)長州から逃れてきた高杉晋作を温かく迎え10日ばかりではあったが、彼は革命家としての命を蘇らせる。高杉が長州に戻るに際し、心尽くしの手製の旅衣を贈った。 慶応2年(1866年)9月、福岡藩の勤王派弾圧(乙丑の獄)で姫島に流されていた望東尼は、高杉の手配により島から救出される。病に冒された高杉と下関で再会し、熱心にその看病に努めるも、翌年4月、高杉は他界する。望東尼も同年11月、防府の三田尻にて死す。いかなる逆境にも屈することなく、最期までひと筋の道を貫いた人生であった。
谷川佳枝子 |
うき雲の かゝるもよしや ものゝふの 大和心の かずにいりなバ |
贈正五位野村望東尼の歌 武士のやまと心をよりあはせ たゞひとすぢのおほづなにせよ |